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[[Image:Jacob Denys - Portrait of Ranuccio II.jpg|thumb|right|200px|後ろがラヌッチョ2世]]
'''ラヌッチョ2世・ファルネーゼ'''
第5代パルマ公[[オドアルド1世・ファルネーゼ|オドアルド1世]]と妃[[マルゲリータ・デ・メディチ]]の長男として生まれた。父の死後2年間、叔父[[フランチェスコ・マリーア・ファルネーゼ]]と母の2人が摂政を務めた。
オドアルドの治世の間、パルマは
1649年、ウルバヌスの後継[[インノケンティウス10世 (ローマ教皇)|インノケンティウス10世]]は、ラヌッチョ2世をクリストフォロ・ジアルダ[[枢機卿]]殺害犯として告発した。その報復に、教皇軍はファルネーゼ家の都市を2
ラヌッチョ2世の治世の晩年にパルマは、[[サヴォイア公国|サヴォイア公]][[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]と結んで[[フランス王国|フランス]]と戦っていた[[神聖ローマ皇帝]]([[ハプスブルク帝国]])軍の過酷な駐留に苦しめられた。
== 家族 ==
1660年、[[マルゲリータ・ヴィオランテ・ディ・サヴォイア]](サヴォイア公[[ヴィットーリオ・アメデーオ1世]]の娘)と結婚した。マルゲリータは1663年に第2子を出産後に産褥死し、子供2人はともに夭折した。
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[[Category:パルマ公]]
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[[Category:イタリアの幼君]]
[[Category:ファルネーゼ家]]
[[Category:1630年生]]
[[Category:1694年没]]
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