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[[Image:Jacob Denys - Portrait of Ranuccio II.jpg|thumb|right|200px|後ろがラヌッチョ2世]]
'''ラヌッチョ2世・ファルネーゼ''' ('''Ranuccio(Ranuccio II Farnese''', [[1630年]][[9月17日]] - [[1694年]][[12月11日]])は、[[パルマ公国|パルマ及びピアチェンツァ]]公(在位:[[1646年]] - [[1694年]])。
 
第5代パルマ公[[オドアルド1世・ファルネーゼ|オドアルド1世]]と妃[[マルゲリータ・デ・メディチ]]の長男として生まれた。父の死後2年間、叔父[[フランチェスコ・マリーア・ファルネーゼ]]と母の2人が摂政を務めた。
 
オドアルドの治世の間、パルマは[[{{仮リンク|カストロ戦争]]|en|Wars of Castro}}に巻き込まれ、[[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]の属するバルベリーニ家が得ようとした[[ローマ]]北部の[[教皇領]]を獲得した。
 
1649年、ウルバヌスの後継[[インノケンティウス10世 (ローマ教皇)|インノケンティウス10世]]は、ラヌッチョ2世をクリストフォロ・ジアルダ[[枢機卿]]殺害犯として告発した。その報復に、教皇軍はファルネーゼ家の都市を2月にわたって包囲し、破壊し尽くした。8月にパルマ軍は[[ボローニャ]]から遠くない地点で鎮圧した。彼は金で買い戻そうとしたが、教皇領はパルマに残らなかった。
 
ラヌッチョ2世の治世の晩年にパルマは、[[サヴォイア公国|サヴォイア公]][[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]と結んで[[フランス王国|フランス]]と戦っていた[[神聖ローマ皇帝]]([[ハプスブルク帝国]])軍の過酷な駐留に苦しめられた。
 
== 家族 ==
1660年、[[マルゲリータ・ヴィオランテ・ディ・サヴォイア]](サヴォイア公[[ヴィットーリオ・アメデーオ1世]]の娘)と結婚した。マルゲリータは1663年に第2子を出産後に産褥死し、子供2人はともに夭折した。
 
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{{DEFAULTSORT:らぬつちよ2}}
[[Category:パルマ公]]
[[Category:ファルネーゼ家カストロ公]]
[[Category:イタリアの幼君]]
[[Category:ファルネーゼ家]]
[[Category:1630年生]]
[[Category:1694年没]]