「ピエール=ジャン・ロビケ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
5行目:
[[ブルターニュ地域圏|ブルターニュ地方]]の[[レンヌ]]に生まれた。父親は書店を営んでいた。はじめ、建築家をめざした。フランス革命で両親が一時、[[ジロンド派]]として拘束された後、[[ロリアン]]の薬学校へ進んだ。1796年から1799年の間、パリで化学、薬学をアントワーヌ・フルクロワ(Antoine-François Fourcroy)、[[ルイ=ニコラ・ヴォークラン]](Louis-Nicolas Vauquelin)に学んだ。フランス陸軍に召集され、イタリアなどで戦った。フランスに戻った後、レンヌの軍病院、パリの軍病院で働いた後、1804年からヴォークランの実験室で働いた。アスパラギンの結晶を得たのはこの時期である。1808年にいとこと結婚し、自らの実験室を開いた。1811年に、パリの薬学高等学院(École Supérieure de Pharmacie)の助教授となり、1814年に教授となった。多くの生薬から有効成分の単離に成功した[[ピエール=ジョセフ・ペルティエ]]はロビケの助手で、ロピケがパリの薬学高等学院の教授職を辞した後、1825年にその職を継いだ。ロピケは1824年にEcole de Pharmacie(現在のパリ大学薬学部)の役員となった。1826年に薬品製造者協会(Société de Prévoyance des Pharmaciens)を設立し、初代会長となった。フランス薬学会(Société de Pharmacie)で要職を務め、1826年には会長になった。
 
[[フリードリヒ・ゼルチュルナー]]が、[[阿片]]から[[モルヒネ]]を単離し、初めて、生薬から有効成分を単離した業績を受けて、ロビケは同時代の[[フリードリープ・フェルディナント・ルンゲ]]などと競いながら、多くの化学者と共同で、多くの化合物を発見(単離)した。発見した化合物には[[アスパラギン]](1805年<ref>P. Walden: ''Chronologische Übersichtstabellen.'' Springer-Verlag, 2013, ISBN 978-3-642-53301-3, S.&nbsp;42 ({{Google Buch|BuchID=0qOcBgAAQBAJ|Seite=42}}).</ref>、ヴォークランと)、[[グリチルリチン]](1808年)、[[カンタリジン]](1811年)、[[カフェイン]](1821年、ルンゲが1820年に単離)、[[アリザリン]]と[[プルプリン]](1826年、コラン(Jean Jacques Colin)と)、[[オルシノール]](1829年)、[[アミグダリン]](1807年)、[[コデイン]](1832年)などがある。
 
== 参考文献 ==