「早川雪洲」の版間の差分

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1937年、雪洲は鶴子と雪夫を日本に残したままフランスに渡った。同地で撮った『ヨシワラ』(Yoshiwara、当時は国辱映画として日本では公開されず、戦後の1946年に日本で公開された最初のフランス映画となる。)および『[[フォルフェテュール]]』(Farfaiture、『チート』のセルフリメイク)は続けて大ヒットし、フランスでの雪洲人気の健在ぶりを印象付けた。
 
女性問題をたびたび起こしてきた雪洲だったが、ここでも『ヨシワラ』で共演した[[田中路子という女性]]と同棲するようになる。しかし、シズからの手紙で妻がいながら愛人と子どもがいることを知った路子が雪洲を見切り、ルースがパリまで追いかけてきたことが決定打となって2人は別れた。そのころ、都内で雪夫と暮らす鶴子のもとに雪洲の愛人シズがあらわれ、2人の娘を残して去って行った。[[日中戦争]]下の上に、ヨーロッパでも緊迫が増してゆく日々を鶴子は実子でない3人の子供たちと生きていかなければならなかった。雪洲との連絡はとだえた。
 
[[1939年]]9月の[[第二次世界大戦]]の開戦の翌年に、日本の友好国である[[ドイツ軍]]がフランスに侵攻し、その後[[1940年]]にフランス全土が占領された。雪洲はドイツ軍占領と南部に[[ヴィシー政権]]が設立された後もパリに住み、同じころにパリで暮らしていた資産家の[[薩摩治郎八]]とも親交を持った。