「フランキー・イェール」の版間の差分

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ギャングから取り立てる闇賭博の上納金や商店の強請が主な収入源だったが、酒の密売で一気に収入が増えると、事業を多角化した。ランドリー業、[[スピークイージー]](闇酒場)、氷(冷蔵庫のない時代の必需品)の卸売り、ダンスホール、葬儀屋、レストラン、タクシー会社、煙草会社など次々に立ち上げた<ref name="b"/>。安く作った氷や煙草を法外な高値で業者に売りつけ、ランドリー業やパン屋商売では組合を作って業者から強制的に会費を取った<ref name="g"/><ref name="h">[https://books.google.co.jp/books?id=2eCPAgAAQBAJ&pg=PA162&lpg=PA162 The Origin of Organized Crime in America: The New York City Mafia, 1891–1931] David Critchley, P. 162</ref><ref>Carl Sifakis, 2006, The Mafia Encyclopedia, P. 479</ref>{{refnest|group="注釈"|イタリヤ系パン屋を脅して組合に加入させ、加入の見返りは競争者が加入メンバーより安く売ることが許されない事だった。1922年のパン屋証言では、加入を拒否すると店を攻撃され、そのまま拒否し続けるとイェールが会費を肩代わりすると折れたため渋々加入したという<ref>Critchley, Notes to Capter 6, No.232, P. 291-292</ref>。}}。
 
儲けた金の一部は慈善事業で庶民に還元した。1922年、クリスマスに12トンの石炭を用意し、貧民に無償で配った。配給場所に教会を利用し、また聖ロザリア教会に寄付をした。1927年、ブルックリンのニューブロードウエイアリーナでボクシングのチャリテマッチを組み、収益を教会に寄付した。同年、学校建設の発起式に参加した<ref name="b"/>。
 
1926年夏、扶養手当を払う条件でマリアと離婚し、翌年ルーシーと再婚した<ref name="b"/>。