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== 天領の規模の変遷 ==
豊臣政権末期には、全国検地高1850万石余の内、12.2%に相当する222万3641石余が豊臣氏の蔵入地であった。江戸幕府の直轄地も、初期においては豊臣氏のそれと大差なかったものと考えられ、慶長10年(1605年)の全国石高2217万1689石余の内、江戸幕府成立時点で230~240万石が幕府直轄領であったと考えられる。
 
上方・関東の天領の石高・年貢高に関しては、向山誠斎著『癸卯日記 四』所収の「御取箇辻書付」により享保元年(1716年)から天保12年(1841年)までの年度別の変遷が明らかになっている。さらに大河内家記録「御取箇辻書付」<ref>藤田覚, 「江戸時代前期の幕領石高・年貢量に関する新史料」, 『史学雑誌』, 104 (10), pp. 1777-1786 (1995年).</ref>の発見により、17世紀中頃からの天領の石高の変遷が明らかになっている。それによれば、天領の石高が初めて300万石を超えたのが[[徳川家綱]]政権下の万治3年(1660年)だが、[[寛文印知]]の前後には300万石を切り、延宝3年(1675年)に至って再び300万石台を回復し、以降300万石を下回ることはない。[[徳川綱吉]]政権下になると[[江戸時代の大名家の改易|大名改易]]による天領石高の増加が著しく、元禄5年(1692年)に初めて400万石を突破し、宝永6年(1709年)以降400万石を下回ることはない。[[徳川吉宗]]政権下では無嗣断絶による公収が相次ぎ、享保16年(1731年)には450万石に達し、延享元年(1744年)には江戸時代を通じて最大の463万4076石余となった。その後徳川[[御三卿]]が相次ぎ分立することにより、延享4年(1747年)以降天領の石高は減少する。宝暦13年(1763年)から寛政5年(1793年)まで430万石台を維持した後、寛政7年(1795年)~寛政10年(1798年)には再び450万石台に戻るが、その後徐々に石高は減少し、天保9年(1838年)には410万石台に落ちる。天保以降では文久年間の石高の数字が残っており、幕末まで410万石台を維持したと考えられる。