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== 概要 ==
[[ファイル:Fushimi-Tonpuppe 2 makffm.jpg|thumb|240px|[[伏見人形]]]]
[[山城国]][[紀伊郡]]深草郷(不加久佐)は、[[京都盆地]]でいち早く稲作が始まったことが深草弥生遺跡から見ることができ、そして[[渡来系]]の豪族[[秦氏]]が拠点とした地の一つとされている。その秦氏の祖霊として創建された[[伏見稲荷大社]]は、全国の[[稲荷神社]]の総本社であり季節にかかわらず観光客で賑わっている。[[百済]]から日本に伝えられた頃から作られていたという[[瓦]]や、伏見稲荷のお土産から全国に広まった[[土人形]]、そして[[三和土]]の原料となる良質な粘土質の深草土が産出した。
 
[[ファイル:Sujikai Bashi Fukakusa Kyoto.JPG|thumb|240px|left|upright|直違橋]]
地区内を南北に[[京街道]]の一部で港町伏見と京都を結ぶ[[竹田街道]]([[国道24号線]])と[[伏見街道]]([[直違橋通]])、[[川端通]]と[[京町通 (京都市)|京町通]]を繋ぐ[[師団街道]]が、東西は[[西岸寺 (京都市伏見区深草)|西岸寺]]から[[稲荷山]]と[[大岩山 (京都府)|大岩山]]の間の峠を[[勧修寺]]に至る[[大岩街道]]と、[[名神高速道路]]、そして[[阪神高速8号京都線]]の[[稲荷山トンネル (京都府)|稲荷山トンネル]]が[[東山 (京都府)|東山]]を抜け[[山科]]との間を結ぶ。さらに、京都を通らずに[[大津宿]]と[[伏見宿]]を結ぶ[[東海道五十七次]]の一部である[[大津街道]]は、[[藤森神社]]前で伏見街道から分岐し大亀谷の[[西福寺]]から大岩街道を経て[[髭茶屋追分]]に至り、[[墨染]]から八科峠を経て[[六地蔵]]に至る[[奈良街道 (京都府)|奈良街道]]([[墨染通]])なども地区内を通る古くからの交通の要衝であり、京都市街地や[[山科区]]、[[宇治市]]、[[城陽市]]方面へのアクセスも容易である。
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[[ファイル:KamogawaCanal 2015 0913 28 5.jpg|thumb|240px|[[鴨川運河]]と[[京阪本線]]]]
また、京都の中心部と伏見を結ぶ[[運河]]として江戸時代初期には[[東高瀬川]]が、明治には[[鴨川運河]]([[琵琶湖疏水]])が開削され水運に用いられていた。そして鉄道は旧[[東海道本線]]が[[稲荷駅]]から大岩街道の峠を越え、日本初の[[路面電車]]である[[京都市電伏見線]]が竹田街道に、また竹田街道から稲荷大社までの支線[[京都市電稲荷線]]もあったがどれも廃止され、現在は[[京阪本線]]、[[JR奈良線]]、[[近鉄京都線]]が域内を通っている。
 
[[ファイル:Kyoto Seibogakuin.jpg|thumb|240px|left|upright|旧第16師団司令部庁舎]]
[[町村制]]の施行により深草村が発足。深草町を経て[[1931年]](昭和6年)4月1日に、[[伏見市]]とともに京都市へ編入され伏見区の一部となった。昔から分区構想がたびたび出ていることもあり、地域内の住民登録や行政事務は深草向畑町にある伏見区役所深草支所にて独自に行われている。[[第16師団 (日本軍)|第16師団]]司令部が置かれていたが、戦後は庁舎が[[学校法人聖母女学院]]の本館となり、鴨川運河に架かる橋に施された意匠や、[[師団街道]]、軍人湯などの名称、京都[[衛戍病院]]([[国立病院機構京都医療センター]])の存在などにも名残が見られる。周辺の陸軍用地跡には[[京都教育大学]]や[[龍谷大学]]などが出来たため学生も多く住む。
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== 交通機関 ==
=== 鉄道 ===