「成瀬正一 (フランス文学者)」の版間の差分

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==米国留学と欧州での経験(1916~1918)==
1916年、卒業後まもなく渡米<ref>「出帆」芥川龍之介著 青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/160_15199.html</ref>。コロンビア大学大学院に籍を置くが、多くの時間を執筆活動、美術館通い(メトロポリタン美術館、ブルックリンミュージアム、ヒスパニック・ソサエティー・オブ・アメリカ)や劇場通いに費やした。美術館ではシャヴァンヌ、ゴヤ、ミレーなど当時の日本では見られない実物に接し、その感激を『[[新思潮]]』の仲間に書き送った。<ref>成瀬正一から松岡譲への書簡集、香川県高松の菊池寛記念館蔵</ref>この頃養われた鑑賞眼が5年後パリに於ける松方コレクション収集時に役立つことになる。地元紙 the[[New York World]]に"My First Night in New York"を寄稿した。 友人[[Waldo Frank]]の求めに応じて雑誌 [[The Seven Arts]]に英文のエッセイ "Young Japan"を執筆した。明治維新後、突然大量に流入した西洋文化に戸惑う日本の知識人について書かれている。[[The Seven Arts]]は当時戦争賛美の世相の中で平和主義を貫いた数少ない雑誌だった<ref>https://www.amazon.com/Seichi-Naruse-Untermeyer-Randolph-supplement/dp/B0081LLFOK</ref><ref>http://themargins.net/bib/D/d24.html</ref>。この時期に『フロリダ行き』と『カナダの旅行』を書いた。 『フロリダ行き』には、アメリカ南部を旅する日本人など稀有であった時代に目の当たりにした人種差別や、まさに第一次世界大戦参戦前夜の米国特有の世相が活写されている。1918年3月、ドイツUボートによる攻撃の危険を冒して欧州に渡る。戦火のパリ、リヨンを経てスイスに入り、ジュネーヴ レマン湖の小島ではジャン・ジャック・ルソー(後年、成瀬の研究の対象となる)の像に遭遇した<ref>『瑞西の旅』1(随筆)、中央公論 第三四巻第四号</ref>。7月、ヴェルヌーヴに亡命中のロランに会い3週間を共に過ごす。2人は洋の東西の文学、文化、社会状況について語り合い、約20年後の太平洋戦争勃発を予言した。成瀬の一言一句は、ロラン著「戦時の日記」(『ロマン・ロラン全集』第30巻 戦時の日記III 1916.11~1918.3 みすず書房 1952)に詳しく書かれている。成瀬はこの時の経験を『ロオランとの三週間』や『瑞西の旅』2に書き、第一次世界大戦の勝利を祝うパリを経由して帰国の途についた。 帰国後まもなく小説家の道を断念し、仏文学研究をライフワークとする。
 
==パリでの生活(1921~1925)==
1919年、川崎福子([[川崎正蔵]]の孫、川崎芳太郎の長女)と結婚。1921年、福子を伴ってパリに居を移し、4年の長きに渡り、ソルボンヌ(旧パリ大学の文学部)や文学サロンに於いて、又個人教師によって、仏蘭西浪漫主義思想の研究に没頭した。この間研究対象とした膨大な書物は現在も九州大学附属図書館内成瀬文庫(2138冊)に見ることができる<ref>https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/ja/collections/naruse</ref>。
パリ生活の初期、1921年の春から年末にかけて、川崎家を通して予てよりの知己である[[松方幸次郎]]の絵画彫刻の蒐集購入に協力した。 松方のベルネーム・ジューヌやディラン・リュエル等のパリ画廊画商めぐりに、時には[[矢代幸雄]]と共に、屡々同行し、特にクールベとギュスターブ・モローの作品購入を勧めた。パリ郊外ジベルニーのモネ邸には、妻の福子、松方幸次郎、黒木三次・竹子(松方の姪)夫妻、[[坂崎坦]](美術史家)などを伴って80歳を超えたクロード・モネを訪れ、モネの長男の妻ブランシュ・オシュデや次男ミッシェルとも親交が深かった。 松方を伴った初回、福子と竹子は振袖姿で訪問したというエピソードがある。1923年には、福子と[[ジョルジュ・クレマンソー]]と共にヌイイの病院に白内障の手術のため入院していたモネを見舞った。[[File:Claude Monet and Fukuko Naruse.jpg|thumb|right|300px|1921年 ジベルニーにて成瀬正一撮影。向かって左からミッシェル・モネ、クロード・モネ、成瀬福子、ブランシュ・オシュデ・モネ]]成瀬はレオンス・ベネディット([[リュクサンブール美術館]]長、後の[[ロダン美術館]]長)とも懇意で、ベネディットから直接ロダン作ヴィクトル・ユゴーの石膏像を購入したが、この作品は第二次大戦の戦後混乱時に東京で所在不明となった。
1925年、九州帝国大学(現 九州大学)での教職に就くべく、4年間のパリ留学を終え帰国した。
 
==九州大学教授時代(1925~1936)==
法文学部教授として、フランス文学史と18,19世紀浪漫主義思想を教えた。 対象は、ジャン・ジャック・ルソー、シャトーブリアン、ヴィクトル・ユゴー、ゴーチエ、フローベール、モンテスキュー等であった。 各小説、戯曲、詩歌などは、作者の人物像や生い立ち、時代的背景から入り、原文にあたって講義された。このよく準備された丁寧な授業は、長年に渡る研究がまとめられた数十冊の講義形式のノートによるもので、これは成瀬の死後『仏蘭西文学研究』第1輯・第2輯として出版された。 学生時代からの魚釣りの趣味は、川釣りにも海釣りにも適したこの福岡の地でプロ級となり、春夏秋冬詳細につけていた日記は、死後『釣魚日記』として雑誌「釣の研究」に5年に渡って掲載された。
  
==三度目のパリ滞在(1935)==
 
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*『紐育より』(一)~(四)(通信文)、第四次新思潮、第一年第九号、1916年11月 ~ 第四次新思潮、第二年第二号、1917年3月
*『創作に於ける個人性と文芸批評』(評論)、第四次新思潮、第二年第二号、1917年3月
*『Young Japan』(評論)、[[The Seven Arts]] (pp.&nbsp;616–26), April 1917,http://themargins.net/bib/D/d24.html (雑誌The Seven Artsの説明は英語版Wikipediaを見よ)
*『フロリダ行き』(紀行文)、帝国文学 第二三巻第六号、1917年12月
*『カナダの旅行』(紀行文)、帝国文学 第二四巻第二号、1918年2月
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==家族==
妻:成瀬福子(旧姓 川崎)は、[[川崎正蔵]]の孫で、川崎芳太郎([[川崎造船所]]副社長)の長女。
子供:村上光子(長女)は俳人で[[馬酔木]]同人。 成瀬不二雄(二男)は、江戸時代の洋風画研究者で[[大和文華館]]副館長)。 村上光子(長女)は俳人で[[馬酔木]]同人。
弟:[[成瀬正二]]は、軍人で航空魚雷の開発者。