「成瀬正一 (フランス文学者)」の版間の差分

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==パリでの生活(1921~1925)==
1919年、川崎福子([[川崎正蔵]]の孫、川崎芳太郎の長女)と結婚。1921年、福子を伴ってパリに居を移し、4年の長きに渡り、ソルボンヌ(旧パリ大学の文学部)や文学サロンに於いて、又個人教師によって、仏蘭西浪漫主義思想の研究に没頭した。この間研究対象とした膨大な書物は現在も九州大学附属図書館内成瀬文庫(2138冊)に見ることができる<ref>https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/ja/collections/naruse</ref>。
パリ生活の初期、1921年の春から年末にかけて、川崎家を通して予てよりの知己である[[松方幸次郎]]の絵画彫刻の蒐集購入に協力した。 松方のベルネーム・ジューヌやディラン・リュエル等のパリ画廊画商めぐりに、時には[[矢代幸雄]]と共に、屡々同行し、特にクールベとギュスターブ・モローの作品購入を勧めた。福子は当地の人気画家ジョルジュ・デスパニャに師事していたので、デスパニャの作品が松方コレクションに数多く収蔵されているのはこのためかもしれない。
パリ郊外ジベルニーのモネ邸には、妻の福子、松方幸次郎、黒木三次・竹子(松方の姪)夫妻、[[坂崎坦]](美術史家)などを伴って80歳を超えたクロード・モネを訪れ、モネの長男の妻ブランシュ・オシュデや次男ミッシェルとも親交が深かった。 松方を伴った初回、福子と竹子は振袖姿で訪問したというエピソードある。1923年には、福子と[[ジョルジュ・クレマンソー]]と共にヌイイの病院に白内障の手術のため入院していたモネを見舞った。[[File:Claude Monet and Fukuko Naruse.jpg|thumb|right|300px|1921年 ジベルニーにて成瀬正一撮影。向かって左からミッシェル・モネ、クロード・モネ、成瀬福子、ブランシュ・オシュデ・モネ]]成瀬はレオンス・ベネディット([[リュクサンブール美術館]]長、後の[[ロダン美術館]]長)とも懇意で、ベネディットから直接ロダン作ヴィクトル・ユゴーの石膏像を購入したが、この像は第二次大戦の戦後混乱時に東京で所在不明となった。
1925年、九州帝国大学(現 九州大学)での教職に就くべく、4年間のパリ留学を終え帰国した。