「ランチア・ストラトス」の版間の差分

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前述の通りランチアがストラトスを投入するまでは当時のラリー戦歴的にジャン・クロード・アンドリューが駆る[[繊維強化プラスチック]]ボディによる軽量化まで進化していた[[アルピーヌ・A110]]に手を焼いていた1971年シーズンまで、ランチアは[[ランチア・フルヴィア|フルヴィア]]、フィアットは[[フィアット・124|124アバルト・スパイダー]]で対抗するも、[[RACラリー]]とスカンジナビア・ラリーで[[フォード・モーター|フォード]]はティモ・マキネンとロジャー・クラーク、[[サーブ]]は[[スティグ・ブロンクビスト]]などが焦点を絞っており、安定した常勝には難しく、サファリ・ラリーには日産が[[日産・ブルーバード|ブルーバード510]]、[[日産・フェアレディZ|ダットサン・240Z]]で[[シェカー・メッタ]]や地元勢がスポット的に勝ちを狙い、ランチアがヨーロッパのみならずのラリー制覇に目を向けるにはフランス勢<ref>主に[[プジョー]]、[[ルノー]]勢</ref>の存在もあり、フルヴィアやその後、ともに新規参戦とする[[ランチア・ベータ|ベータ・クーペ]]の戦闘力で押さえつけるには開発競争的にも熾烈を極めていた状況であった。まず、ストラトスは前述にもある通りプロトタイプクラスで1972年の[[ツール・ド・コルス]]にルーフの後へインダクションポッドを配す仕様で試験的に投入。1973年、1974年とラリーは[[オイルショック]]で一時開催を部分的に自粛されるも、その後はストラトスが旋風を巻き起こす。そこから熟成を重ね、1973年世界戦外であるスペインのファイアストーン・ラリーで初優勝を挙げるとこれをコンペティツィオーネ仕様として熟成させていくことになる。熟成に際して各スペック開発へ関与していたのはサファリスペックがムナーリが担当。それを転用しグラベル兼用とし、ターマックスペックを開発上のプリペア能力に長けたクラウディオ・マリオーリが担当した<ref>三栄ムック ラリーカーズ Vol.1 Lanchia Stratos HF「プロジェクト“S” ジャンニ・トンティの証言」より。</ref>。
 
=== WRC ===
[[世界ラリー選手権|WRC]]での初勝利は、市販モデルとして挑んだグループ4ホモロゲーション取得直後の地元ステージ、1974年[[ラリー・サンレモ]]であり、わずか4戦に出場しただけで1974年のメイクス・タイトル<ref>サンレモ、リドー湖、ツール・ド・コルスの3勝</ref>を獲得してしまった。その後、[[1975年]]、[[1976年]]と、他チームはストラトスに基準を合わせ開発を進めるも、どの車よりもその走りは[[ターマック]]、[[グラベル]]を選ばず総合的に寄せ付けなかった。
 
完走の難易度が高い1975年のサファリ<ref>山海堂オートテクニック誌 昭和50年5月臨時増刊号 「'75ラリー&rally SAFARI」参考。</ref>ではビヨン・ワルデガルドとサンドロ・ムナーリのストラトス2台、ベータ・クーペが1台支援としてエントリー。サービスポイント数やセスナの手配においても他チームより万全のサポート体制を敷く。79台出走中完走14台と言う過酷なラリーとなった。3台とも度重なるミッション、サスペンショントラブルの中、幸運にもポイントリーダーである[[三菱・ランサー]]のジョギンダー・シンが翌日の第2レグ前半でリタイア。ベータもその直後リタイア。ワルデガルドもブレーキトラブルでペースダウンを余儀なくされ、[[オヴェ・アンダーソン]]の[[プジョー・504]]よりポイントでリードしていた分、トランスミッション修復でポイント減点されていたムナーリが最終ステージでコースアウト。リアセクションをヒットさせ、スペアタイアの重みでリアカウルが吹き飛び、三菱勢を抑えつつもゴール手前でカウルを付け直しなんとかムナーリが2位、ワルデガルドが3位に食い込む。翌年からのサファリではその間のラウンドであるRACラリーでも同様のトラブルが起きていたことからタイヤをルーフに取り付けるようになったのはこの時の有名なエピソードが含まれる。さらにサファリをも得意としていたワルデガルドが1976年後半にフォードへ移籍。このことから[[1977年]]のサファリを勝ち取るのがこの車にとっていかに難しかったかが伺える<ref>この年のサファリはムナーリの手で3位に入ったもののシモ・ランピネンなどもエンジントラブルで終わる。[http://www.rallybase.nl/index.php?type=result&rallyid=340 rallybase.nl 「25th Safari Rally result」] より</ref>。結果1974年、1975年、1976年の世界ラリー選手権製造者部門のタイトルを獲得。1974年はフルヴィアやベータ・クーペでのポイントを含む。ただ、この時点で3度メイクスタイトルに輝いたとしてもムナーリ、[[ラウノ・アルトーネン]]、ヴィック・プレストン・ジュニアなどと多くのドライバーに委ねようとRACラリーだけは勝てなかった。
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