「ウィリアム・ミッチェル」の版間の差分
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1917年に「イギリス諸島はいつか大量の空中攻撃に対して脆弱になる」と語った。1919年に「空挺部隊は壊滅的効果がある敵地の背後へ侵入できる」と語った。1920年に「ドイツの軍国主義が世界を脅かす」と語った。1925年に「日本は太平洋で戦争を引き起こす。はじめに晴れた日曜日の朝にハワイを叩くことでアメリカに攻撃する」と語った<ref name=AviationHOF>{{cite web|title=William "Billy" Mitchell|url=http://www.nationalaviation.org/mitchell-william/|publisher=National Aviation Hall of Fame|accessdate= 2013年6月9日}}</ref>。1920年晩春、アメリカ初の国立航空研究所である[[ラングレー記念航空研究所]]が開設するとミッチェルは25機の戦闘機隊を率いて上空で派手なショーを行い観客を魅了した<ref>マイケルゴーン『NASA―The Complete Illustrated History』トランスワールドジャパン12頁</ref>。
ミッチェルは[[空軍独立論]]者であり、[[戦艦無用論]]の提唱者であった。1921年7月13日~21日、ミッチェルによって陸海軍協同で戦艦に対する大規模な爆撃実験を行なわれた。陸軍航空隊のマーチン爆撃機(MB-2)で大西洋岸に浮かべた実験艦に対艦爆撃を行い、ドイツの戦艦{{仮リンク|オストフリースラン
1925年、悪天候によって[[飛行船]][[シェナンドー (飛行船)|シェナンドー (ZR-1)]]が墜落した事件で、ミッチェルは友人を失い、「勇敢な飛行士が安全を処置しない無知な提督に死へ送られた」「無能、犯罪にも等しい職務怠慢、国益に反する国防行政」と新聞に声明を発表して、陸海軍統帥部を激しく批判した。このため[[カルビン・クーリッジ]]大統領はこの反抗を軍法会議にかけた。判決は軍法96条により有罪となり、「階級、指揮権、職務の五年間停止、給与、手当の没収」という処分を受けた<ref name=AviationHOF>{{cite web|title=William "Billy" Mitchell|url=http://www.nationalaviation.org/mitchell-william/|publisher=National Aviation Hall of Fame|accessdate= 2013年6月9日}}</ref><ref>山本親雄『大本営海軍部』朝日ソノラマ</ref>。唯一、少年時代からの友人である[[ダグラス・マッカーサー]]だけがこの判決に反対した<ref name=AviationHOF>{{cite web|title=William "Billy" Mitchell|url=http://www.nationalaviation.org/mitchell-william/|publisher=National Aviation Hall of Fame|accessdate= 2013年6月9日}}</ref>。ミッチェルは1926年に除隊する。除隊時の階級は准将。
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