「文帝 (漢)」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 出生 ===
生母の[[薄姫|薄氏]]は[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[魏 (戦国)|魏]]王室出身でありの女性を母とし、[[秦]]末の動乱期から[[楚漢戦争]]初期の頃に[[魏豹|魏王豹]]の後宮に入内した。[[許負]]という人相師は彼女の人相を見、いずれ皇帝を産むであろうと予言したと史書は伝えている。
 
劉邦との関係は、劉邦に同調し楚の[[項籍]]に対抗した魏豹が、[[彭城の戦い|彭城での大敗]]を契機に反劉邦の反乱を起こしたことに始まる。漢の[[大将軍]][[韓信]]に再び敗れた魏豹は庶民に落とされ、劉邦の居城である{{lang|zh|滎}}陽に連行されるが、薄氏の一族や関係者も同行させられた。薄氏は劉邦の後宮に入って雑用を行っに従事したが、ある日劉邦の目に留まり、寝所に召されることとなる。その後はほとんど劉邦と関係を持たなかったと言われるが、薄氏は劉恒を儲けることとなった。
 
=== 代王時代 ===
楚漢戦争が終結すると劉邦が皇帝に即位し、異姓の[[諸侯王]]が取り潰されていく中、劉恒は[[趙]]に封じられた異母兄[[劉如意]]の後任として[[代]]王に封じられた。しかし劉恒は幼少であったため、高祖劉邦の信任を受けた[[傅寛]]が宰相([[諸侯相]])に配され、後見することとなった。劉恒は代王太后(代国の王太后)となった薄氏と叔父(薄氏の弟[[薄昭]]とともに任国に向かい、そこで成長した。
 
高祖(劉邦)の崩御後、正妻であった[[呂雉]]が[[皇太后]]として実権を掌握し、劉如意など高祖の庶子を次々と殺害していったが、劉恒はこの難を逃れている。その背景には、劉恒の生母である薄氏が、劉如意の生母の[[戚夫人]]などと異なり、劉邦から寵愛されることが少なかったことが考えられる。
 
異母弟の趙共王[[劉恢]]の側室が正室の呂氏(呂后の甥・[[呂産]]の娘)により毒殺され、劉恢がその後を追って自害すると、呂后はその後任として劉恒の移封を検討した。劉恢や[[劉友]]ら異母弟が呂后により殺害されていることを理解していた劉恒は、代が[[匈奴]]に近いため匈奴侵攻の防衛の重要性を理由とし、呂后に上啓して移封を辞退している(趙王には呂后の甥・[[呂禄]]が封じられた)。
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文帝の政策は、父の高祖や嫡母の呂雉、あるいは孫の[[武帝 (漢)|武帝]]の時代に比べれば、目立った業績は欠如しているが、民衆にとっては社会が安定して歓迎すべき時代が創出された。文帝の治世は次の景帝の代と合わせて「[[文景の治]]」と賞賛され、食料が食べ切れずに倉庫で腐敗したり、銭差し(銭の間に通す紐)が腐って勘定ができなくなった、などの逸話が残されている。
 
文帝の16年、「人主延寿」と瑞兆ともいうべき文字が彫られていた玉杯が発見され、その記念に[[改元]]して再び元年と称した。2度目の改元以降は「後元年」「後2年」と呼称している。
 
== 妻子 ==