「佐野宗綱」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
20行目:
|''特記事項 =
}}
'''佐野 宗綱'''(さの むねつな)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[佐野氏]]の第16代当主で、[[佐野昌綱]]の嫡男<ref>横山氏からの養子説もある。石崎英雄『栃本と佐野氏の歴史』</ref>。
 
== 生涯 ==
[[永禄]]3年([[1560年]])、[[下野国]]の[[戦国大名]]・佐野昌綱の子として誕生。
父・佐野昌綱の死後、[[上杉謙信]]に度々攻められるが、これを堅城・[[唐沢山城]]と自身の知略をもって何度も撃退している。また配下に[[鉄砲]]の供出を義務付けるなど<ref>天正11年6月3日付福地出羽守宛書状</ref>、当時の関東では遅れていた鉄砲の普及を推奨するなど革新的な政策も施した。また早くから中央政権にも連絡をとっていた。はじめ[[後北条氏|北条氏]]と同盟を結んでいたが、北条氏との同盟を破棄して[[常陸国]]の[[佐竹氏]]と手を結び、北条氏と戦った。
 
父・佐野昌綱の死後、[[上杉謙信]]に度々攻められるが、これを堅城・[[唐沢山城]]と自身の知略をもって何度も撃退している。また配下に[[鉄砲]]の供出を義務付けるなど<ref>天正11年6月3日付福地出羽守宛書状</ref>、当時の関東では遅れていた鉄砲の普及を推奨するなど革新的な政策も施した。また早くから中央政権にも連絡をとっていた。はじめ[[後北条氏|北条氏]]と同盟を結んでいたが、北条氏との同盟後にこれを破棄して[[常陸国]]の[[佐竹氏]]と手を結び、北条氏と戦った。
 
天正4年([[1576年]])6月10日、[[織田信長]]の推挙によって但馬守に任命され、その礼金を献じている。
29 ⟶ 31行目:
天正9年([[1581年]])、[[北条氏照]]に攻められたが、これは佐竹氏の援軍の助けもあり、撃退に成功している。
 
天正10年([[1582年]])3月、[[武田氏]]を滅亡させた[[織田氏]]の重臣・[[滝川一益]]が上野一国を受領すると、叔父の[[天徳寺宝衍]]が一益の側近となり誼を通じた。同年6月18日から19日にかけて起こった[[神流川の戦い]]においては、滝川一益の要請を受け上州和田に出陣した<ref>『大日本史料 第十一編之一』P.668</ref>。
 
天正12年([[1584年]])4月、佐野宗綱は北条方であった[[富岡秀高]]の[[小泉城]]を攻撃し、[[沼尻の合戦]]が起きた。
 
天正13年(1585([[1585]])元旦、北条氏に与する[[長尾顕長]]と彦間で戦った際に、敵将の挑発に乗り、単騎で突出したところを鉄砲で撃たれ、落馬したところを討ち取られてしまった<ref>唐沢城老談記</ref>。それまで長尾勢との戦いでは遅れをとった事がなく、自身の武勇を過信し、敵を侮ったためとされる。
 
宗綱のにより、嫡子の無かった佐野氏は北条氏から[[北条氏忠]]を養嗣子として迎え入れ、佐野氏忠を名乗らせて家名を保ったが、事実上、北条氏に勢力を吸収された形となり、以後、佐野氏は反北条勢力の跋扈する[[下野国]]攻略の拠点として重要視される事となる。
 
天正18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]で、にて北条氏が没落し、氏忠も運命を同じくすると佐野氏は一旦断絶したが、宗綱の死後に出奔し[[豊臣秀吉]]に仕えていた叔父の天徳寺宝衍(佐野房綱)が小田原征伐で功を挙げたため、再興されている。
 
天正18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]で、北条氏が没落し、氏忠も運命を同じくすると佐野氏は一旦断絶したが、宗綱没後に出奔し[[豊臣秀吉]]に仕えていた叔父の天徳寺宝衍(佐野房綱)が小田原征伐で功を挙げたため、再興されている。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
<references/>
 
== 参考文献 ==
*佐野市史
50 ⟶ 54行目:
[[Category:1560年生]]
[[Category:1585年没]]
{{Reflist}}