「ルキウス・ユニウス・ブルトゥス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Mogu777 (会話 | 投稿記録)
BOX追加と内容の修正
Mogu777 (会話 | 投稿記録)
m 章立てとルキウスが多すぎる(王と本人と同僚)ので途中からブルトゥスに呼称を統一など
15行目:
'''ルキウス・ユニウス・ブルトゥス'''({{lang-la|Lucius Iunius Brutus}})は、[[共和政ローマ]]の実質的な設立者。[[紀元前509年]]、第7代ローマ王[[タルクィニウス・スペルブス]]を追放して[[共和政]]を布き、初代[[執政官]](コンスル)に就任した。
 
==王政下での経歴==
ブルトゥス家はタルクィニウス王家に対して憎悪を抱いており、[[元老院 (ローマ)|元老院]]で強力な指導力を発揮し始めたルキウスの兄弟が殺害されるなど深刻な対立関係にあった。王家による危険分子への粛清の嵐が吹き荒れる状況の中、ルキウスはわざと愚鈍な人間を装い、王家の粛清を逃れる事に成功した。国王タルクィニウスはルキウスを無能だと侮り、彼なら自分の王位への脅威にはならないと判断して自らの側近に取り立てた。彼の[[コグノーメン|あだ]]「ブルトゥス」は「阿呆」の意味であり、これは彼がいかに軽く見られていたかを物語っている。
 
王の信任を得たキウトゥスは王の息子の人間と[[ギリシア]]の[[デルポイ]]に神託を伺いに赴いたり、殊にデルポイの神託。その折、タルクィニウスの息子「次の王は誰になるか?」と聞いたところ、「母なるものに接吻する者」と返ってきた。「母なるもの」を「大地」と解釈しブルトゥスは地面に接吻したと言う。そしてローマに戻ると周辺部族の制圧のため軍を率いて出征が続き、ローマを離れることが多くなたと
 
==共和政の樹立==
キウトゥスがローマから離れていた間に、近親の既婚女性[[ルクレティア]]がタルクィニウスの息子で王子の[[セクストゥス・タルクィニウス]]に[[強姦]]され、辱めを受けたルクレティアが自らの胸を短刀で貫いて[[自殺]]するという事件が起きた。伝説では、この報を聞いたキウトゥスが息絶えたルクレティアの胸に刺さった小刀を手に取り、「ただちにタルクィニウスの一族を追放せよ」とローマの民衆を煽動したと伝えられている<ref>[[ティトゥス・リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』</ref>。
 
[[File:N03Brutus-u-Lucretia.jpg|左|サムネイル|Ignaz Franz Platzer作、『ルクレティアの遺体に復讐を誓うブルトゥス』]]
キウトゥスはすぐさま国王タルクィニウスとその一族を[[エトルリア]]へと追放することに成功し、以後は王を置かず本来は王の諮問機関であった[[元老院 (ローマ)|元老院]]に政務を担わせることとし、元老院の代表として2人の定員で[[プラエトル]]という役職を設置<ref>当時のプラエトルは共和政ローマの最高の地位にあった。のちにプラエトルの職務は[[コンスル]]に代わられるようになる。</ref>、亡きルクレティアの夫[[ルキウス・タルキニウス・コッラティヌス]]と共に自ら就任した。
 
その後もコッラティヌスのローマ退去や、ローマ内で王政復古を画策する王党派の陰謀が明るみに出るなど受難が続くが、キウトゥスは陰謀に加担していた自分の息子[[ティトゥス・ユニウス・ブルトゥス|ティトゥス]]を容赦無く処刑するなど断固とした態度で挑み、共和維持のために尽力した。また、亡命した国王タルクィニウスが他の[[エトルリア人]]勢力と同盟を結んでローマに侵攻([[シルウァ・アルシアの戦い]])。ブルトゥスは同僚の[[プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ]]とこれを迎撃し、ローマ軍は勝利したものの、タルクィニウスの息子の一人と刺し違えて命を落とした。
 
==死後==
死後も共和政ローマの理念を象徴する者とされ、[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]が王位への野心を露にしたときには、ルキウスの像に「ブルトゥスは最初の執政官となって王を追放したのに、こいつ(カエサル)は執政官を追放して、ついに我々の王位に上り詰めた」と書かれたと伝わっている<ref>[[ガイウス・スエトニウス・トランクィッルス|スエトニウス]]「皇帝伝」カエサル [[wikisource:The_Lives_of_the_Twelve_Caesars/Julius_Caesar#80|80]]他</ref><ref>皮肉にもカエサル自身ルキウスの子孫である[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス]]の手によって殺害されている。</ref>。
ブルトゥスの葬儀はプブリコラによって盛大に執り行われたという。
 
一つ空席となった執政官の座には、ルクレティアの父[[スプリウス・ルクレティウス・トリキピティヌス|トリキピティヌス]]が補充執政官として選出されたものの、高齢のためほどなく死去し、更に補充として[[マルクス・ホラティウス・プルウィルス]]が選出された。
 
死後も共和政ローマの理念を象徴する者とされ、[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]が王位への野心を露にしたときには、キウトゥスの像に「ブルトゥスは最初の執政官となって王を追放したのに、こいつ(カエサル)は執政官を追放して、ついに我々の王位に上り詰めた」と書かれたと伝わっている<ref>[[ガイウス・スエトニウス・トランクィッルス|スエトニウス]]「皇帝伝」カエサル [[wikisource:The_Lives_of_the_Twelve_Caesars/Julius_Caesar#80|80]]他</ref><ref>皮肉にもカエサル自身キウトゥスの子孫である[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス]]の手によって殺害されている。</ref>。
 
==脚注==