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=== 怪僧 ===
[[File:Rasputin-PD.jpg|thumb|200px|ラスプーチン(1910年)]]
やがてラスプーチンはアレクサンドラはじめ宮中の貴婦人や、宮廷貴族の子女から熱烈な信仰を集めるようになる。彼が女性たちの盲目的支持を得たのは、彼の[[巨根]]と超人的な精力によるという噂が当時から流布しており、実際に彼の生活を内偵した秘密警察の捜査員が呆れ果て、上司への報告書に「醜態の限りをきわめた、淫乱な生活」と記載するほどであった。しかし、貴族たちは次第にラスプーチンが皇帝夫妻に容易に謁見できることに対して嫉妬心を抱くようになった<ref>{{cite web|url=http://www.alexanderpalace.org/palace/ndiaries.html|title=Diaries of Nicholas II – Alexander Palace Time Machine|author=|date=|publisher=|accessdate=27 December 2014}}</ref>。サンクトペテルブルクではアパート5部屋を借りて家族と共に暮らしていたが、家賃はアレクサンドラ又は信者の{{仮リンク|アレクサンドル・タネイェフ|en|Alexander Taneyev}}が代わりに支払っていた<ref>[[#Nelipa|Nelipa]], p. 515.</ref><ref>[http://www.petersburg-mystic-history.info/ru/rasputin-adr_1.html Петербургские квартиры Распутина]. Petersburg-mystic-history.info. Retrieved on 15 July 2014.</ref>。
 
1907年9月に[[トボリスク]]で開かれた教会裁判において、ラスプーチンは{{仮リンク|フリスト派|en|Khlysts}}を信仰しており、偽の教義を広め女性信者とキスや混浴をしたとして非難された<ref name="pomnipro.ru">{{cite web|url=http://pomnipro.ru/memorypage3098/biography|title=Распутин Григорий Ефимович — Биография|author=|date=|publisher=|accessdate=27 December 2014}}</ref><ref>[[#Nelipa|Nelipa]], pp. 31, 35.</ref>。しかし、地元の司祭たちがラスプーチンを連れ出そうとした時には、既に彼はトボリスクを離れており、フリスト派との関係を示す証拠も発見されなかった<ref>[[#Moe|Moe]], p. 53-55.</ref><ref>{{cite web|url=http://www.angelfire.com/pa/ImperialRussian/news/reviewrasputin.html|title=Royal Russia News: The Murder of Grigorii Rasputin: A Book Review by Charlotte Zeepvat|author=|date=|publisher=|accessdate=27 December 2014}}</ref>。このような醜態は新聞によって大々的に報道され、ラスプーチンの理解者だったビストロフも彼から離れ、ストルイピンも帝都からの追放を画策していた。