「大原孫三郎」の版間の差分

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[[1906年]](明治39年)、[[社員寮]]内で感染病を出し社員数名を死亡させた責任を取る形で父が辞任したため、倉敷紡績の社長となる。就任と同時に工員の労働環境改善を図った。従来の飯場制度を廃止し、従業員の確保・食事の手当・日用品の販売等を会社が運営するよう改めた。工員の住居も集団寄宿舎から今日のような社宅に近い状態に改め、駐在医師や[[託児所]]までの設備も備えており、更には社員勧誘用の[[映画]]までも作った。また、幹部社員に大学・専門学校の卒業生を採用した。また、会社の利益のほとんどを[[日露戦争]]などで増えた孤児を救うために[[孤児院]]を支援。支援金額は現在の金額では数百億円に上ったといわれる。旧来の重役や株主は守旧的や利益主義であり当然これらの改革には反対した。これに対し後に口癖となった「わしの眼は十年先が見える」という言葉で押し切った。
 
[[1914年]]([[大正]]3年)に大原奨農会農業研究所(現在の[[岡山大学資源生物科学研究所]]の前身)を設立し、農業の改善も図った。また、社会問題の研究機関として[[1919年]](大正8年)2月に大原社会問題研究所(現在の[[法政大学大原社会問題研究所]])を開設。のちに[[マルクス経済学]]の研究が中心となり、大原社会問題研究所や孫三郎もまた[[特別高等警察]]から警戒された。だが戦後になり復興し、多くの貴重な書籍が発見されたり大原社会問題研究所は多くの政治家などを輩出した。[[1921年]](大正10年)には労働環境改善の研究機関として倉敷労働科学研究所(現在の[[大原記念労働科学研究所]])を開設した。[[1923年]](大正12年)倉紡中央病院(現在の[[倉敷中央病院]])を設立し、工員のみならず市民の診療も行った。
 
工場を[[蒸気]]による動力から電気動力への転換を図り中国水力電気会社(現在の[[中国電力]])を設立。中国合同銀行(現在の[[中国銀行 (日本)|中国銀行]])の頭取となり、地元経済界の重鎮となった。さらに[[1926年]](大正15年)には倉敷絹織(現在の[[クラレ]])を設立。
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