「金子誠」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
エリクセン (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
Fujimori5 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
6行目:
|背番号 = 88
|選手写真ファイル名 = NF-Makoto-Kaneko20120310.jpg
|写真のコメント = 日本ハム現役時代(2012年)
|国籍 = {{JPN}}
|出身地 = [[千葉県]][[我孫子市]]
32行目:
{{MedalTop}}
{{MedalSport|男子 [[野球]]}}
{{MedalCountry|{{JPN}}}}
{{MedalBronze|[[2004年アテネオリンピック (2004年)|2004]]|[[2004年アテネオリンピックの野球競技|野球]]}}
{{MedalBottom}}
'''金子 誠'''(かねこ まこと、[[1975年]][[11月8日]] - )は、[[千葉県]][[我孫子市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[内野手]])、[[プロ野球コーチ]]。現在は[[北海道日本ハムファイターズ]]の一軍打撃コーチを務める。
43 ⟶ 44行目:
 
=== プロ入り後 ===
'''{{by|1994年}}'''、この年は1軍出場はなかった。
 
'''{{by|1995年}}'''、プロ入り初出場を果たし、4試合に出場して2安打を放った。
 
'''{{by|1996年}}'''、プロ3年目にしてレギュラー[[二塁手]]となり、[[打率]].261、[[パシフィック・リーグ]]最多の38[[犠牲バント|犠打]]を記録し、その年のパ・リーグ[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]に選ばれた。同年の[[セントラル・リーグ]]の新人王は、同じ常総学院のOBでもある[[仁志敏久]]だった。
 
'''{{by|1997年}}'''、1試合2発を含む自身初の2桁[[本塁打]](12本)、打率.277を記録。この年はオリックス・[[大島公一]]に1票差で[[ゴールデングラブ賞]]受賞を逃すも、翌{{by|1998年}}、{{by|1999年}}と2年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。
 
'''{{by|1998年}}'''、前年とそれほど変わらない成績だったが打点26と得点圏では課題を残した。ただし三振数は前年から大きく減らした。
 
'''{{by|1999年}}'''、この年も成績そのものは前年同様変わらなかったが、プロ入り初の全試合出場を果たした。
 
'''{{by|2000年}}'''、これまでの成績を下回り打率.231と低迷した。
 
'''{{by|2001年}}'''、前年より打率を上げ、2年ぶりの全試合出場を果たした。
 
'''{{by|2002年}}'''、それまで正[[遊撃手]]だった[[田中幸雄 (内野手)|田中幸雄]]が[[三塁手]]に[[コンバート (野球)|コンバート]]されたのに伴い、遊撃手にコンバートされた。また、兄貴分として慕っていた[[片岡篤史]]が[[阪神タイガース]]へ移籍したため、片岡が着用していた背番号'''8'''を受け継いだ。この年は打撃好調で打率.285の成績を残した。
 
'''{{by|2003年}}'''、この年は不振に陥り打率.244で100安打にも満たなかった。
 
'''{{by|2004年}}'''、こシーズン途中8月に開催された[[2004アテネオリンピック|アテネオリンピック]]にチームメイトの[[小笠原道大]]と共に[[2004年アテネオリンピック野球競技・日本代表|日本代表]]に選出された。しかしシーズンではこの年も100安打に到達することなくシーズンを終えた。
 
'''{{by|2005年}}'''、は監督の[[トレイ・ヒルマン]][[監督]]に出塁率の低さを指摘され、新外国人の[[エリック・アルモンテ]]に遊撃手のレギュラーの座を奪われて開幕二軍スタートとなるも、アルモンテの不振によって5月に一軍昇格し、レギュラーに復帰した。シーズンオフに、[[札幌グランドホテル]]開催された選手ディナーショーに出演しファン層拡大に努めた。
 
'''{{by|2006年}}'''、日本ハム選手会の会長に就任。主に9番打者として活躍し、リーグ優勝、日本一を達成。中日との[[2006年の日本シリーズ|日本シリーズ]]第2戦では1対2とリードされた7回表、[[山本昌]]から逆転打を放ち、その裏では1死一、二塁のピンチで代打・[[立浪和義]]の三遊間の難しいあたりを好捕し、二塁封殺を取る活躍を見せ、お立ち台に上がった。第5戦では0対1とリードされた5回裏、[[川上憲伸]]から巧妙な[[スクイズバント]]を決め、同点に追いつく活躍を見せた。この年の[[2006年のパシフィック・リーグプレーオフ|パ・リーグプレーオフ]]からは[[リストバンド]]を[[浅葱色]]のものに変更<ref>2006年オールスター休み時に行われたデパートのトークショーにてテーマカラーに決定。ファンから「一つの色にこだわってみないか」と提案され、のり気ではなかった金子は「皆さんで決めてください」と回答。その時着ていた上着の色が水色だったことから水色を提案される。浅葱色になったのは、[[坪井智哉]]のサックスブルーとかぶらないために変えた。</ref>
 
'''{{by|2007年}}'''、[[主将]]に就任。シーズン序盤は打線全体の低調ぶりと相反して金子の打撃は好調だったため[[クリーンナップ]]を打つこともあったが、主に九番を打った。打率.243(リーグ最下位)ながら[[得点圏打率]]は.285で、チーム3位の53打点を記録した。中日との日本シリーズでは第1戦、7回までセギノールのホームラン1安打で抑えていた川上からセンター前ヒットを放つ。
 
'''{{by|2008年}}'''、開幕から打撃不振でケガもあり絶不調に陥る。9月以後持ち直すも打率・本塁打数は前年をも下回った。同年オフに同じ遊撃手の[[二岡智宏]]がトレードで日本ハムに移籍したことについて、対抗心こそ見せないが「自分らしく」と、マイペースな意気込みを語った。
 
'''{{by|2009年}}'''、選手会長の座を後輩の[[田中賢介]]に、主将の座も[[稲葉篤紀]]にそれぞれ譲ることになった。4月には7日の対[[千葉ロッテマリーンズ]]戦から15日の対[[オリックス・バファローズ]]戦にかけて、日本プロ野球新記録となる7試合連続[[二塁打]]を放った事と、月間打率.423が評価されてパ・リーグ[[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]に野手部門で選ばれた<ref>初受賞がプロ16年目なのは、1992年の[[金石昭人]](日本ハム)の14年目を更新し、月間MVP制定後、パ・リーグで最も遅咲きの初受賞となった。</ref>。最終的に、1997年以来の2桁本塁打と、キャリア初の打率3割を記録した。自身3度目となるゴールデングラブ賞を受賞、過去の2度は二塁手部門で、遊撃手部門としての受賞は初。これらの好成績が評価され、[[12月10日]]には球団との交渉の結果、自身初めての1億円越えとなる1億3500万円(推定)の[[年俸]]で来季の契約を更改した。なお、金子の初めての1億円越えは17年目のことであり、球団史上最も遅い記録だった<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/091211/bsj0912110507001-n1.htm 日本ハム・金子誠、17年目の1億円到達!(サンケイスポーツ)]‐2010年1月17日閲覧。</ref>。
 
'''{{by|2010年}}'''、開幕を一軍で迎えたが、痛めていた両足のアキレスけん痛や股関節痛で二軍降格。その後一軍復帰するも右内側腓腹筋の筋挫傷(2度=中等度)<ref>[http://www.fighters.co.jp/news/category_list/2_201008.html 北海道日本ハムファイターズ公式サイト ニュース 金子誠選手の診断結果]</ref>で二軍落ちした。その後の出場は1度もないままシーズンを終えた。
 
'''{{by|2011年}}'''、故障への配慮から[[飯山裕志]]、[[今浪隆博]]らと併用され、一度も二軍落ちせずシーズンを乗り切ったが、打撃成績・守備成績ともに下降した。
 
'''{{by|2012年}}'''、このシーズンも怪我の影響で戦線離脱はあったが、3年ぶりに100試合以上の出場を記録した。しかし、打率は2割台前半に低迷し、[[1995年]]以来の本塁打0本に終わった。
 
'''{{by|2013年}}'''、この年は故障の影響と、若手選手の[[中島卓也]]やオリックス・バファローズからトレード移籍してきた[[大引啓次]]の台頭もあり、一軍定着後では最低の32試合出場に留まった。打撃面では56打席で18三振を喫し本塁打0本打率2割に低迷し、守備でも2002年以来となる二塁手を主に努めたが、二塁での守備率は.927と低い数字で、攻守に精彩を欠くシーズンとなった。
 
'''{{by|2014年}}'''、若手選手の台頭から前年よりさらに出場機会を減らしたことで、9月27日現役引退を表明した<ref>[http://www.fighters.co.jp/news/detail/4865.html 金子誠選手が引退を表明] 北海道日本ハムファイターズ公式サイト 2014年11月24日閲覧。</ref>。11月25日、ファイターズのチーム統轄本部特命コーチに就任することが発表された<ref name = "fighters141125">[http://www.fighters.co.jp/news/detail/5024.html 金子誠氏がチーム統轄本部特命コーチに就任] 北海道日本ハムファイターズ公式サイト 2014年11月25日閲覧。</ref>。ファイターズと業務提携を結んでいる[[サンディエゴ・パドレス]]へコーチ研修を目的とした野球留学をしながら、日本に帰国した際には指導にもあたる<ref name = "nikkan141125">[http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20141125-1400782.html ハム金子誠氏 特命コーチに就任] - [[日刊スポーツ]]、2014年11月25日。</ref>。位置づけとしてはフロントスタッフであり、コーチとしては非常勤ながら、これまで[[トレイ・ヒルマン]]、[[梨田昌孝]]両元監督が着けていた背番号88番を背負うこととなった<ref name = "fighters141125" /><ref name = "nikkan141125" />。
 
=== 現役引退後 ===
{{by|2015年}}は[[GAORA]]や在札民放局のファイターズ中継に解説者として出演。同年[[10月23日]]、2016年シーズンからファイターズの一軍打撃コーチに就任することが発表された<ref>[http://www.fighters.co.jp/news/detail/5777.html コーチングスタッフ変更のお知らせ] 北海道日本ハムファイターズ公式サイト 2015年10月23日配信</ref>。
 
{{by|2017年}}9月11日に11月に開催される[[2017 アジア プロ野球チャンピオンシップ|第1回アジア プロ野球チャンピオンシップ]]の[[2017 アジア プロ野球チャンピオンシップ 日本代表|日本代表]]ヘッドコーチを務めることが発表された<ref>[http://www.japan-baseball.jp/jp/news/press/20170911_6.html 「ENEOS アジア プロ野球チャンピオンシップ2017」コーチングスタッフについて] ''野球日本代表 侍ジャパン オフィシャルサイト'' (2017年9月11日) 2017年10月8日閲覧</ref>。
 
== 人物 ==
288 ⟶ 291行目:
* '''8''' (2003年 - 2014年)
* '''88''' (2015年 - )
 
=== 代表歴 ===
* [[2004年アテネオリンピックの野球競技・日本代表|2004年アテネオリンピック野球日本代表]]
 
=== 指導歴 ===
* [[2017 アジア プロ野球チャンピオンシップ 日本代表]]
 
== 関連情報 ==
314 ⟶ 323行目:
{{パシフィック・リーグ ゴールデングラブ (遊撃手)}}
}}
{{Navboxes|title = {{Flagicon|JPN}} 野球日本代表
|titlestyle =background:#003; color:#fff
|list1=
</span>
{{アテネオリンピック野球日本代表}}
{{2017 アジア プロ野球チャンピオンシップ 日本代表|コーチ}}
}}
{{日本ハムファイターズ1993年ドラフト指名選手}}