「庄内藩」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
1個の出典を修正し、0個にリンク切れのタグを追加しました。 #IABot (v1.5.4)
編集の要約なし
48行目:
列藩同盟盟主の一角である[[米沢藩]]が降伏したため、藩首脳部は撤兵を決断、さらに会津藩も降伏し、庄内藩以外のすべての藩が恭順した。[[明治]]元年[[9月26日 (旧暦)|9月26日]]([[1868年]][[11月10日]])庄内藩も恭順した。結果的には恭順したものの庄内藩は最後まで自領に新政府軍の侵入を許さなかった。なお、戊辰戦争の直前及び交戦中には[[会津藩]]とともに、当時の[[プロイセン王国]]に対して駐日代理[[公使]][[マックス・フォン・ブラント]]を通じて[[蝦夷地]](北海道)に持つ所領の割譲を提案し、その見返りとして兵器・資金援助や軍事介入を得ようとしていたことが分かっている<ref>2011年2月7日の朝日新聞朝刊10面</ref><ref>「戊辰戦争中の会津、庄内両藩 蝦夷地所領 プロイセンに提示 資金か軍隊派遣と引き換えに」『[[読売新聞]]』朝刊2017年5月17日文化面</ref>。
 
明治元年12月に公地没収。11代・[[酒井忠篤_(庄内藩主)|忠篤]]は謹慎処分となったが、弟・[[酒井忠宝 (庄内藩主)|忠宝]]が12万石に減封の上、[[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]へ、翌明治2年([[1869年]])6月には[[磐城平藩]]へと転封を繰り返した。本間家を中心に藩上士・商人・地主などが明治政府に30万両(当初は70万両の予定だったが揃わず減額が認められた)を献金し、明治3年([[1870年]])酒井氏は庄内藩へ復帰した。共に列藩同盟の盟主であった会津藩が解体と流刑となったのとは逆に、庄内藩は比較的軽い処分で済んだ。これには明治政府軍でも[[薩摩藩]]の[[西郷隆盛]]の意向があったと言われ、この後に庄内地方では西郷隆盛が敬愛された。明治3年11月には、旧庄内藩主酒井忠篤が旧藩士78名と共に鹿児島に入り、また後年にも旧家老菅実秀等が鹿児島を訪問し、西郷隆盛(西郷南洲翁)に親しく接する機会を得た。この経験を踏まえ、南洲翁の遺訓をまとめた「西郷南洲翁遺訓」が旧庄内藩士により、明治初期にまとめられた。現在でも、南洲翁の遺徳を伝えようと、財団法人 荘内南洲会により南洲神社が運営されている。                  [[明治]]2年[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]、藩名は大泉藩と改称された。同年、[[胆振国]][[虻田郡]]を領有している。
 
[[明治]]2年[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]、藩名は大泉藩と改称された。同年、[[胆振国]][[虻田郡]]を領有している。明治4年([[1871年]])[[廃藩置県]]により大泉県となる。後、[[酒田県]]や[[鶴岡県]]への改名を経て、[[1876年]][[8月21日]]に[[山形県]]に編入された。
尚、当藩出身の著名な人物として、領内清川村出身の志士・[[清河八郎]]がいる。
 
尚、当藩出身の著名な人物として、領内清川村出身の志士・[[清河八郎]]がいる。
明治4年([[1871年]])[[廃藩置県]]により大泉県となる。後、[[酒田県]]や[[鶴岡県]]への改名を経て、[[1876年]][[8月21日]]に[[山形県]]に編入された。
 
尚、酒井氏は明治17年([[1884年]])[[伯爵]]となり[[華族]]に列している。<!--旧大名家で維新後上京した家が多い中で、維新後も現在に至るまで旧領地に居住する数少ない大名家である。--><!--華族には東京に在住することが定められていましたが-->
 
== 歴代藩主 ==