「佐野洋」の版間の差分
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== 来歴 ==
[[東京市]][[大森 (大田区)|大森]](現・[[東京都]][[大田区]]大森)出身。[[東京高等学校|東京中学]]卒業<ref>[http://www.tokyo-hs.ac.jp/sub15.html 卒業生紹介]東京高等学校公式サイト</ref>。[[第一高等学校 (旧制)|旧制一高]]に首席合格、[[東京大学]]文学部心理学科卒業。[[1953年]]、[[読売新聞社]]に入社。当初兼業作家だったため、ペンネームは「社の用」にかけて付けた。[[1959年]]に新聞社を退社。最も好きな推理作家として英国の[[アンドリュー・ガーヴ]]の名を挙げている。[[黒岩重吾]]に「血や汗を流していない小説」と批判され、「むしろ賛辞と受け止めたい」と返したほど知的遊戯としてのミステリを貫いているが、一方で「同一の主人公のシリーズばかり書くと、作品のパターンが繰返しになり、マンネリズムに陥る」などの理由からシリーズ探偵には否定的な立場を取り、エキセントリックな犯罪や大掛かりなトリックも排除するなど、ほどのよいリアリズム、中庸さが持ち味でもある。雑誌発表短編を直接文庫本にまとめるケースも多い。短編を
論客であると同時に作家同士の交友には積極的なタイプで(上記の黒岩とも私生活上は親しい友人であった)、[[多岐川恭]]、[[河野典生]]、[[星新一]]、[[水上勉]]、[[結城昌治]]らとともに若手作家の親睦団体「他殺クラブ」を結成、のち[[笹沢左保]]、[[大藪春彦]]、[[都筑道夫]]、[[生島治郎]]、[[戸川昌子]]らも加えて70年ごろまで活動した。
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