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[[File:Sanjūrokkasen-gaku - 5 - Kanō Tan’yū - Chūnagon Yakamochi.jpg|thumb|200px|大伴家持([[狩野探幽]]『三十六歌仙額』)]]
'''[[]]伴 家持'''(おおとも の やかもち、[[養老]]2年([[718年]])頃<ref>『[[公卿補任]]』[[天応 (日本)|天応]]元年(781年)条で64歳としており、逆算して生年は養老2年(718年)となる。一方、[[宝亀]]11年([[780年]])条では[[天平]]元年([[729年]])生まれとしている。</ref> - [[延暦]]4年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]([[785年]][[10月5日]])は、[[奈良時代]]の[[貴族]]・[[歌人]]。[[大納言]]・[[大伴旅人]]の子。[[官位]]は[[従三位]]・[[中納言]]。[[三十六歌仙]]の一人。[[百人一首|小倉百人一首]]では'''中納言家持'''。
 
『[[万葉集]]』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、[[大伴氏]]は[[大和朝廷]]以来の武門の家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残すを生き延び、[[延暦]]年間には[[中納言]]まで昇った。