「スティーブ・マックイーン」の版間の差分

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マックイーンは1930年3月24日に[[インディアナ州]][[ビーチグローブ]]の[[:w:en:St. Francis Hospital & Health Centers|聖フランシス病院]]で生まれる<ref>http://www.mcqueenonline.com/birthcertificateandfirsthome.htm</ref><ref name="terrillx1x"/><ref name="WVobit">Obituary ''[[Variety Obituaries|Variety]]'', November 12, 1980.</ref>。父親のウィリアム・テレンス・マックイーンは[[曲技飛行]]のスタントパイロットであり、母親のジュリア・アン(旧姓クロフォード)は[[アルコール依存症]]であった<ref name="Eliot">[[マーク・エリオット (作家)|Marc Eliot]] ''Steve McQueen: A Biography'' [[Crown Publishing Group]] 2011; ISBN 978-0-307-45323-5</ref><ref name=Nolan />{{rp|7-8}}<ref name=dneir>{{cite book|last=McQueen Toffel|first=Neile|title=My Husband, My Friend|publisher=Penguin Group|year=1986|page=4|isbn=0-451-14735-9}}</ref><ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=MEc4Le05JFUC&dq=%22JULIA+ann%22+%22MCQUEEN%22&q=%22JULIA+ann%22|title=McQueen: The Untold Story of a Bad Boy in Hollywood - Penina Spiegel|via=[[Google Books]]|accessdate=2012-01-15}}</ref>。2人はマックイーンが生後6ヶ月の時に離婚した<ref name="terrillx1x"/>。ジュリアは幼子の面倒を見ることができず、1933年に[[ミズーリ州]][[スレーター (ミズーリ州)|スレーター]]の両親(ヴィクターとリリアン)の元にマックイーンを預けた。間もなく[[世界恐慌]]が始まり、マックイーンと祖父母はリリアンの兄、クロードがスレーターで営む農場に移り住んだ<ref name="terrillx1x"/>。マックイーンは[[カトリシズム|カトリック]]として育てられた<ref>{{cite web|last=Mackay|first=Kathy|url=http://www.people.com/people/archive/article/0,,20077667,00.html|title=Steve McQueen, Stricken with Cancer, Seeks a Cure at a Controversial Mexican Clinic|work=[[People (magazine)|People]]|quote=Raised as a Catholic, he now feels he has, according to one friend, 'made his peace with God.'|date=1980-10-20|accessdate=2010-08-07}}</ref><ref>{{cite web|last=Leith|first=William|url=http://www.newstatesman.com/200111260047|title=Easy rider|work=[[New Statesman]]|quote = Steve knew what it was like to be dyslexic, deaf, illegitimate, backward, beaten, abused, deserted and raised Catholic in a Protestant heartland.|date=2001-11-26|accessdate=2010-08-07}}</ref>。
 
マックイーンはクロードの農場に住んでいた時代について、後に以下のように述べている。「彼は非常に良い男で、非常に強く、非常に公平だった。私は彼から多くのことを学んだ。<ref name="terrillx1x"/>」クロードはマックイーンが4歳の誕生日に赤い[[三輪車]]を与え、マックイーンは後にこれがレースに関心を抱くきっかけとなったと語っている<ref name="terrillx1x"/>。8歳の時に彼は母親によって[[インディアナポリス]]に連れて行かれ、彼女の新しい夫と共に[[インディアナポリス]]で暮らした。マックイーンは農場を去るときの特別な思い出を語っている。「クロードおじさんの農場を離れる日、彼は私に個人的な餞別 - 銘がケースの内側にある金の懐中時計 - をプレゼントしてくれた。」その銘は「私の息子だったスティーブへ」とあった<ref name="Nolan">{{cite book |last=Nolan |first=William |authorlink=William F. Nolan |title=McQueen |publisher=Congdon & Weed Inc. |year=1984 |isbn=0-312-92526-3}}</ref>。
 
[[ディスレクシア]]と幼い頃の耳の感染症により部分的な難聴があったため<ref name="terrillx1x"/>、スティーブは新しい生活になじむことができなかった。継父は彼を叩き、彼は9歳で家を出て悪さをするようになった<ref name="Eliot"/>。すぐにストリートギャングに仲間入りし、[[微罪]]を繰り返した<ref name="terrillx1x"/>。母親は彼の振る舞いをコントロールできず、彼をスレーターに送り返した。マックイーンが12歳の時、ジュリアはクロードに対して、[[ロサンゼルス]]の新居で彼女と共に暮らすため息子を引き取りたいと手紙を書いた。ジュリアは2番目の夫と離婚し、3度目の再婚をしていた。
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マックイーンによると、新しい継父と彼は「すぐに衝突した」<ref name="terrillx1x"/>。継父をマックイーンは「血気早い野郎」と呼んだ。彼はマックイーンと母に拳を振り上げるのをいとわなかった<ref name="terrillx1x"/>。マックイーンが再び反抗し始めたので、彼は再びクロードの元に送り返された<ref name="terrillx1x">{{cite book | last=Terrill | first=Marshall | title=Steve McQueen: Portrait of an American Rebel | publisher=Plexus Press | year=1993 | isbn=978-1-556-11380-2}}</ref>。マックイーンは14歳で別れの言葉も告げずにクロードの農場を離れ、短期間サーカスに加わり<ref name="terrillx1x"/>、そしてロサンゼルスの母と継父の元に戻り、ギャングのメンバーとして微罪を繰り返す日々を再開した。彼は{{仮リンク|ハブキャップ|en|hubcap}}を盗んでいるところを警察に捕まり、継父の元に帰された。継父は彼をひどく殴り、階段から下に投げ落とした。マックイーンは継父を見上げて「あんたはまた俺に臭い手をつき出した。俺はあんたを殺すと誓う。」と言った<ref name="terrillx1x"/>。
 
事件の後、継父は母親を説得し、マックイーンを矯正するために[[チノヒルズ (カリフォルニア州)|チノヒルズ]]の[[:w:en:Boys Republic|ボーイズ・リパブリック]]に入所させるという裁判所命令に署名させた<ref name="terrillx1x"/>。ここでマックイーンは人が変わり、成熟し始めた。彼は当初他の少年達に人気が無かった。「そうだな、少年達には月に一度、映画を見に行くために町へのバスに乗れる機会があったとしよう。だが、ある一人がバンガローで仕事を怠けたために、彼らはその機会を失った。さて、彼らはそれについて不満を持ったと考えられるね。私は何度かそれをやってしまった。私は報いを受けたんだ、間違いなく。他の奴らは、自分の幸せを妨げる奴に借りを返したんだ。<ref name="McCoy">{{cite book | last=McCoy | first=Malachy | title=Steve McQueen, The Unauthorized Biography | publisher=Signet Books | year=1975 | isbn=0-352-39811-6}}</ref>」最終的にマックイーンはボーイズ・カウンシル(少年達の生活上の規約を決定するグループ)に選出され、規範生となった<ref name="terrillx1x"/>。結局、彼は16歳でボーイズ・リパブリックを出所した。彼は有名になってからも、少年達と話すために定期的に施設を訪れ、その関係は生涯保たれた。
 
マックイーンはチノヒルズを出発し、[[ニューヨーク]]の[[グリニッジ・ヴィレッジ]]に移り住んでいた母親の元に戻った。その後彼は商船に乗り組む二人の水夫に出会い、[[ドミニカ共和国|ドミニカ]]行きの船で働くと申し出た<ref name="terrillx1x" />。彼はその新しい仕事を一度は断念したが、結局は[[売春宿]]のタオルボーイに採用された<ref name="Eliot" />。その後マックイーンは[[テキサス]]に向かうこととし、転々と職を変えた。彼は[[:w:en:roughneck|石油の井戸掘り人]]、カーニバルでの小間物売り、[[樵|木こり]]などの職を経験した。
 
===海兵隊で===
[[1947年]]、マックイーンは[[アメリカ海兵隊]]に入隊、[[:w:en:Private first class|一等兵]]に昇進し、戦闘部隊に配属された<ref name="terrillx1x"/>。当初彼はその反抗的な態度を顕わにし、二等兵に7回降格した。彼は週末の休暇が終了した後、無断で隊に戻らずガールフレンドの家に二週間留まり、[[:w:en:Shore patrol|憲兵]]によって捉えられた。彼は逮捕の際に抵抗し41日間[[営倉]]入りした<ref name="terrillx1x"/>。この一件の後、彼は自己改善にエネルギーを集中させると決心し、海兵隊の規律を受け入れた。彼は北極海での演習中に他の海兵隊員5名の命を救った。タンクの中にいた5名を流氷がタンクを突き破る前に助け出した<ref name="terrillx1x"/><ref>{{cite web |last=Enk |first=Bryan |title=Real Life Tough Guys |url=http://movies.yahoo.com/photos/real-life-tough-guys-1374864278-slideshow/afi-life-achievement-award-a-tribute-to-mel-brooks-awards-presentation-photo-1374864255359.html|publisher=Yahoo.com|accessdate=27 July 2013}}</ref>。彼は儀仗兵に任命され、[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]のヨットの警備に配属された。マックイーンは[[1950年]]まで海兵隊で勤務し、その後[[名誉除隊]]した。彼は後に海兵隊時代は楽しかったと語っている<ref>{{cite web|url=http://www.military.com/veteran-jobs/career-advice/military-transition/famous-veteran-steve-mcqueen.html |title=Famous Veteran: Steve McQueen |publisher=Military.com |date= |accessdate=2014-03-08}}</ref>。
 
==俳優として==
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彼は週末にロングアイランド・シティ・レースウェイで行われるレースに参加して賞金を稼ぎ、所有した多数のバイクの最初となる[[ハーレーダビッドソン]]を購入した。彼はすぐに優れたレーサーとなり、毎週末におよそ100ドル({{Inflation|USD|100|1952|r=-2|fmt=eq}})の賞金を稼いで家に帰った<ref name="terrillx1x"/><ref>{{cite web|url=http://www.bls.gov/data/inflation_calculator.htm |title=BLS.gov |publisher=BLS.gov |date=2011-08-17 |accessdate=2012-01-15}}</ref>。その後[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]の『[[:w:en:Jukebox Jury|ジュークボックス・ジュリー]]』(1953-54シーズン)に音楽の審査員として出演した<ref>''Jukebox Jury'': Research Video, Inc.: Music Footing Licensing Agency and Vintage Television Footage Archive</ref>。
 
マックイーンは『''Peg o' My Heart''』、『{{仮リンク|結婚式のメンバー|en|The Member of the Wedding}}』、『''Two Fingers of Pride''』等の劇に端役として出演した。[[ブロードウェイ・シアター|ブロードウェイ]]のデビューは[[1955年]]の『[[夜を逃れて]]』で、[[ベン・ギャザラ]]が主役であった<ref name="terrillx1x"/>。
 
1955年後半に25歳のマックイーンはニューヨークを離れ、カリフォルニアに向かった。[[エコーパーク (ロサンゼルス)|エコーパーク]]地区のベスタ通りに住み、ハリウッドでの演劇の仕事を探した<ref name=oll>{{cite web|title=Our Lady of Loretto Elementary School: Local History Timeline|url=http://www.ollalumni.com/local-history.php|accessdate=2011-06-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110715000634/http://www.ollalumni.com/local-history.php|archivedate=2011年7月15日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。『{{仮リンク|ウェスティングハウス・スタジオ・ワン|en|Westinghouse Studio One}}』のエピソード、「''The Defenders''」に出演すると、ハリウッドのマネージャーである[[ヒラード・エルキンス]](マックイーンの最初の妻、ネリーをマネージメントしていた)の目にとまる<ref name="neile">{{cite book | last=McQueen Toffel | first=Neile | authorlink = Neile Adams| title=My Husband, My Friend | publisher=Signet Books | year=2006 | isbn=1-4259-1818-2}}</ref>。エルキンスは[[B級映画]]が若い俳優を評価するのに適した場所だと決めた。マックイーンは[[ロバート・ワイズ]]の『[[傷だらけの栄光]]』([[ポール・ニューマン]]主演)に最初の端役を得た。続いて『[[ニューヨークの顔役]]』、『[[マックイーンの絶対の危機]]』(初の主演)、『[[セントルイス銀行強盗]]』に出演した。
 
マックイーンの最初のブレイクはテレビ映画であった。[[デイル・ロバートソン]]主演の[[NBC]]の西部劇『[[拳銃街道]]』に出演した。マックイーンのマネージャーとなったエルキンスはプロデューサーの[[ヴィンセント・M・フェンリー]]への売り込みに成功し、『[[トラックダウン (テレビドラマ)|トラックダウン]]』に賞金稼ぎのジョシュ・ランダル役で出演することとなった。『トラックダウン』の主役は古くからのニューヨークでのレース仲間であった[[ロバート・カルプ]]であった。その後マックイーン主演の[[パイロットフィルム]]が撮影され、それは『[[拳銃無宿]]』のタイトルで[[1958年]]9月に[[CBS]]で放送された。
 
===1960年代===
[[File:Steve McQueen Virginia Gregg Wanted Dead or Alive 1959.JPG|thumb|upright|『拳銃無宿』でのマックイーン、[[ヴァージニア・グレッグ]]と、1959年。]]
『拳銃無宿』のDVDのインタビューで『トラックダウン』主演のロバート・カルプは、ハリウッドにマックイーンを連れてきて、ランダルがもらえるようにて賞賛すべきたのは自分だと主張している。彼はマックイーンに「早撃ちの芸術」を教えたのだと言ったうのである。そして撮影の2日目に、マックイーンが彼をたたきのめしたのだと付け加えている。マックイーンはこのシリーズに出演したすることで有名よく知られるようになった<ref name="terrillx1x"/>。ランダルの特別なホルスターは、典型的な西部劇のキャラクターが[[回転式拳銃|リボルバー]]を収めたのに対して、ソード・オフ(銃身切断)の[[ウィンチェスターライフル]]({{仮リンク|メアーズレッグ|en|Mare's Leg}}と渾名される)収められることができた。しかしながら、ガンベルトのカートリッジは「より手強く見える」ということで、ダミーの.45-70が選ばれた。賞金稼ぎの一般に否定的なイメージと結びついて、ミステリーと無関心で満たされるアンチヒーローのイメージを増し、この番組を典型的なTV西部劇から卓越させた。1958年から1961年前半まで続いた94のエピソードでマックイーンはロサンゼルス、[[チャッツワース (ロサンゼルス)|チャッツワース]]の[[:w:en:Movie Ranch|アイヴァーソン・ムービー・ランチ]]のなじみとなった。『拳銃無宿』の屋外アクションの大半は同所で撮影された。
 
29歳のときにマックイーンは重要なブレイクを得た。[[サミー・デイヴィスJr.]]がラジオで[[フランク・シナトラ]]について若干の否定的な発言をした後、『[[戦雲]]』からシナトラがデイヴィスを降板させ、その役がマックイーンに回ってきた。シナトラはマックイーンに特別な何かを感じ、マックイーンの好ましいレビューから、この若い俳優がクローズアップの多くを得たことを確実にした。マックイーンが演じたビル・リンガーは、[[ジープ]]を高速で運転したり、飛び出したり、[[トンプソン・サブマシンガン|トミーガン]]を扱ったりした。