「ガレット・エクボ」の版間の差分

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[[ニューヨーク州]]クーパースタウンに生まれる。父親はノルウェー人で、両親とも裕福な家庭に育ったがエクボが4歳のときに離婚し、一家でアリゾナからサンフランシスコの富裕層が居住するアラメダに移住する。
 
臨時雇いの仕事をしながら、その後マリン短期大学を経て、1935年、[[カリフォルニア大学バークレー校]][[ランドスケープ]]学科]]を卒業。南カリフォルニアにあるアームストロング農園に勤務し、1年で100件近くの庭園を設計したあと[[奨学金]]を得て、[[ハーバード大学]][[大学院]]に進学。1938年に[[修士課程]][[修了]]。
 
2週間だけ[[トーマス・チャーチ]]の[[デザイン]][[事務所]]に勤務したあと、1939年から1942年にかけて、ファーム・セキュリティ社農場保全局に勤務し、アリゾナ州とカリフォルニア州にまたがる農務局・農業就労者のための宿営地、住宅地および住宅庭園、テキサス州[[ハーリンジェン (テキサス州)|ハーリンジェン]]のキャンプ公園スタディ(1940年)カリフォルニア州サンホアギルバレーのミネラルキングコープランチ小公園スタディ、ミッション地区バレンシアガーデン(1939年から1943年)などを手がけるほか、デザイナーグループ「テレシス」の活動や、勤労者学校で住宅計画や都市計画の講師をつとめる。自動車事故による足の怪我によって兵役免除になり、1939年ごろからは港湾施設と仮設住居の建設にも従事。1942年から1967年までは、義弟[[エドワード・ウィリアムズ]]らとパートナーを組んで設計活動を開設する。この間1946年には[[事務所]]をロサンゼルスにも開設して移住し、1948年から1956年にかけて、[[南カリフォルニア大学]]で講師および[[助教授]]に就任し、デザイナーの育成にも当たるほか、著作活動を展開する。
 
1965年にカリフォルニア大学バークレー校[[環境デザイン学部]]が創設され、[[ランドスケープ学科]]([[造園学科]])[[教授]]に就任する。1968年から1973年まで、エクボ/ディーン/オースティン/ウィリアムズ([[EDAW]])として設計活動を展開。
 
1969年に[[大阪府立大学]][[名誉教授]][[久保貞]]の招きで、大阪府立大学[[客員教授]]として3ヶ月日本に滞在した。1970年以降は専らバークレーヒルにある自宅の書斎をスタジオにして、精力的にデザインや講演準備、著述活動を進めていた。