「更始帝」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
40行目:
更始3年([[25年]])9月、赤眉軍が長安に侵入すると、更始帝はまたも長安を脱出する羽目になり、一騎だけで高陵に逃れた。翌月、降伏すれば'''長沙王'''に封じるという赤眉軍に投降し、璽綬を赤眉軍が擁立した皇帝[[劉盆子]]に譲った。赤眉の総帥[[樊崇]]らは劉玄の殺害を企てていたが、劉盆子の兄[[劉恭 (式侯)|劉恭]]が命乞いをして'''畏威侯'''に、さらに長沙王に封じられた。しかし、後難を恐れた降将の張卬が赤眉軍の武将[[謝禄]]を唆し、12月に劉玄は謝禄に殺害された。その屍は劉恭が収容した。
 
死後、[[光武帝]]によって'''[[淮陽県|淮陽]]王'''を追諡され、光武帝の[[司徒|大司徒]][[トウ禹|鄧禹]]に陵(現在の[[陝西省]][[西安市]][[ハ橋区|灞橋区]])に埋葬された。3人の息子は列侯に封じられた。
 
== 人柄・逸話 ==