「オーストリア=ハンガリー帝国」の版間の差分

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[[1848年革命]]は[[ヨーロッパ]]中に波及し、[[ウィーン]]でも暴動が起こるなど混乱の中、[[フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)|フェルディナント1世]]の後を甥の若き皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]が継いだ。しかし、すでに帝国は衰退傾向にあった。
 
[[1853年]]、不凍港獲得を目指す[[ロシア帝国]]は、[[オスマン帝国]]との間に戦端を開く([[クリミア戦争]])。これに対し、[[バルカン半島]]におけるロシアの影響力増大を恐れたオーストリアは、オスマン帝国を支持した。このため、[[ウィーン体制]]の成立以来友好を保っていたロシアとの関係が悪化した。これは[[神聖同盟]]の完全な崩壊を意味し、ロシアの後押しを失ったオーストリアは、[[ドイツ連邦]]内における地位を低下させた。[[1859年]]にはイタリア統一をもくろむ[[サルデーニャ王国]]との戦争に敗北し、[[ロンバルディア]]を失った。[[1866年]]にも[[プロイセン王国]]の挑発に乗って[[普墺戦争]]を起こし、大敗を喫した。その結果オーストリアを盟主とする[[ドイツ連邦]]が消滅してその面目威光を失うなど、徐々に国際的地位を低下させていった。
 
=== 二重帝国の成立 ===