「東峰十字路事件」の版間の差分

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支援学生らが撤収し、捜査陣が現場に入れたのは事件の一週間後であった。地元住民らは基本的に用地を売却せずにその地にとどまる「空港反対派」であるため、捜査陣は機動隊に守られなければ現場に入ることもできず、捜査協力は望むべくもなかった。
 
したがって、機動隊員の死亡に空港反対派、または支援者の中の何者かが関わっていることは明白であったが、誰が致命傷を与えたかが問題となり、人物の特定は難航した。当初警察側では、過去の言行から中核派によるものとの見立てで捜査を進めたが、当日の中核派の活動家らは、駒井野と天浪の[[団結小屋]]に立て篭るか大清水にいたことが明らかとなり、現行犯逮捕者がおらず有力な物的証拠も得られないまま、警察による捜査は行き詰った。捜査本部は「コンピューター捜査」と称してあらゆる証言や物証を複合的に検証して犯人を特定しようとした<ref>大坪景章(1978年)144頁</ref>。
 
捜査当局は、空港反対運動での逮捕歴がある空港反対同盟青年行動隊員らを中心に、同年12月8日から15次に亘って<ref>容疑者が処分保留で釈放されると再逮捕をしたため。</ref>地元住民や常駐学生らのべ153人を[[逮捕]]連行し、55名を[[起訴]]した。(凶器準備集合12名、凶器準備集合・公務執行妨害11名、凶準・公妨・傷害・傷害致死32名)
 
それまでに行われた第一次代執行や農民放送塔の撤去の際には、警察側にもまだ同情的な雰囲気が残っており、反対同盟員を逮捕しても反対運動のいきさつや農作業への配慮等から、[[起訴]]を見送り数日で釈放するなどしていたが<ref>朝日新聞成田支局(1998年)38・42頁</ref>、事件で「警察官の死亡」という結果に、警察の取り調べは厳しいものとなった<ref name="tokyo20160602"/>。