「太田垣士郎」の版間の差分

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→‎経歴: 黒部ダム」から10km下流の地下に「黒部川第四発電所」がある。2点間の落差545mで発電する。
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[[1951年]]、電力界の再編成が行われ[[関西電力]]が発足すると、初代社長に就任した。同時に阪急時代の後輩である[[芦原義重]]が常務に就任している。太田垣は、戦後の電力不足事情をいち早く見抜き、大規模な水力発電所の建設に踏み切った。岐阜県の[[丸山ダム|丸山水力発電所]]である。当時としては最大規模であった。関西電力がスタートした当時の資本金は17億円だったが、スタートしたばかりの時に、資本金の10倍もの資金を投じて大水力発電所の建設に着手したのである。
 
終戦後の復興が目覚しい1950年代になり、関西地域の電力事情が逼迫する状況を目の当たりにした太田垣が、その打開策として手がけたのが世紀の難工事といわれた、[[黒部川第四発電所]](いわゆる[[黒部ダム|クロヨン]]」の建設である。クロヨン建設に当たっては太田垣は「経営者が十割の自信をもって取りかかる事業、そんなものは仕事のうちには入らない。七割成功の見通しがあったら勇断をもって実行する。それでなければ本当の事業はやれるもんじゃない。黒部は是非とも開発しなけりゃならん山だ」と言って決断したのは有名な話である。<ref>この太田垣の言葉は、黒部川第四発電所の正面玄関脇に掲げられた太田垣の肖像と立山連峰を描いたレリーフに刻まれている。</ref>
 
このクロヨン「[[黒部ダム]]」建設計画でも後輩の[[芦原義重]]が太田垣を技術の最高責任者として補佐していた。こうした一連の難工事の経緯は[[石原裕次郎]]&[[三船敏郎]]主演映画『[[黒部の太陽]]』(監督:[[熊井啓]])で全国に知られるようになる。
 
関西電力は電力業界で、経営内容において業界一を誇ったが、その基盤を確立させたのが「クロヨン[[黒部ダム]]」だった。クロヨンの成功をはじめとして、新しいエネルギーである原子力に着目、日本で初めて原子力発電所である「[[美浜発電所]]」[[福井県]][[美浜町 (福井県)|美浜町]])に着手するなど、つねに先端技術を経営に生かした。
 
[[1959年]]、太田垣は、関西電力社長のポストを芦原に譲り、また[[関西経済連合会|関経連]]会長のポストも太田垣から[[阿部孝次郎]](元[[東洋紡|東洋紡績]]会長)を経て、[[1966年]]には芦原に引き継がれている。
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また、かつて京阪神急行電鉄の社長を務めた縁で、京阪電気鉄道と[[近畿日本鉄道]](近鉄)の間で[[奈良電気鉄道]]の株式争奪戦が生じた際には両社の仲介に入り、太田垣の斡旋により最終的に近鉄が京阪の出資分を買い取って合併する形で決着させた<ref>『京阪電鉄のひみつ』209頁 PHP研究所</ref>。
 
[[1964年]][[3月16日]]、自ら精魂を掛けて建設を決断した「[[黒部ダム]]」の完成を待っていたかよう翌年に[[脳軟化症]]の為より逝去。{{没年齢|1894|2|1|1964|3|16}}。
 
== 脚注 ==