「センティヌムの戦い」の版間の差分

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== その後 ==
何人かの歴史家(著作名は不明)によると、ウンブリア軍もこの戦闘に参加しており、連合軍の総兵力は歩兵60,000m000、騎兵40,000、戦車1,000であり、ローマ側もルキウス・ウォルムニウスの2個軍団が加わったとしているが、リウィウスはこれは誇張であるとしている。リウィウスによるとルキウス・ウォルムニウスはサムニウム軍の前面を抑えており、サムニウム軍をティフェルヌス山の近くへと迂回させた。戦闘の後、5,000のサムニウム兵がセンティヌムからパエリグニ族の領土を通過して帰国しようとしたが、パエリグニ族はこれを攻撃し、1,000を殺害した。クイントゥス・ファビウスはプブリウス・デキウスの軍をエトルリア軍に対する備えとし、自身は[[凱旋式]]のためにローマに戻った。エトルリアではペルシアが戦闘を続けていた。アッピウス・クラウディウスがデキウスの軍を指揮するためにプロプラエトルとして派遣され、クイントゥス・ファビウス自身がペルシアに進軍してこれを破った。サムニウムはリリス川周辺、ヴォルトゥルヌス川周辺を攻撃したが、アッピウス・クラウディウスとルキウス・ウォルムニウスが撃退した。両者はカイアティア(現在の[[カイアッツォ]])と[[カプア]]近くで合流し、サムニウム軍に勝利した<ref>[[リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』10.27, 31</ref>。
 
ローマの勝利は、連合軍の団結を打ち壊した。エトルリア、ウンブリア、ガリアは戦争を中止した。サムニウムは同盟国を失ったでけでなく、自身も大損害をこうむった。ローマはこの後の戦闘にも勝利した。5年後に、ついにサムニウムは降伏した。ローマはイタリア中央部のほとんどだけでなく、南部の一部も支配下においた。