「アキテーヌ公」の版間の差分

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=== 百年戦争下のアキテーヌ ===
[[1327年]]に即位したエドワード3世と[[ヴァロワ家]]のフランス王[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]との間には、フランス王位をめぐる継承問題、[[スコットランド王国|スコットランド]]へのフランスの支援、フランスからイングランドへの亡命貴族[[ロベール3世・ダルトワ|ロベール・ダルトワ]]に対するイングランドの支援などを巡って対立が生じ、[[1337年]]5月24日フランス王フィリップ6世はイングランド王からのアキテーヌ公領没収を宣言した。同年11月、エドワード3世はフランスに宣戦布告し、[[百年戦争]]が始まった。[[1355年]]、エドワード3世の長子[[エドワード黒太子]]はボルドーに上陸、[[1356年]]9月19日[[ポワティエの戦い]]においてエドワード黒太子は勝利し、フランス王[[ジャン2世 (フランス王)|ジャン2世]]を捕えた。[[1360年]]5月8日のブレティニーの条約において、アキテーヌにおけるイングランドの主権が認められた。[[1367年]]から[[1369年]]にかけ、エドワード黒太子は[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]遠征を行ったが敗退し、その後黒太子は財政難に陥り、アキテーヌで新たな戸別税を[[三部会]]に承認させた。これに反発したアルマニャック伯などが[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]に上訴し、[[パリ高等法院]]は黒太子に出頭を求めたが黒太子は応じず、両国の関係は悪化、同年11月30日、シャルル5世はアキテーヌの没収を宣言した。1369年、王弟アンジュー公[[ルイ1世・ダンジュー|ルイ]]はルエルグ、ケルシー、[[ペリゴール]]に侵攻、[[1372年]]には[[ベルトラン・デュ・ゲクラン]]率いるフランス軍がポワトゥー、サントンジュ、[[アングレーム]]を奪還した。休戦期間を経て、[[1404年]]には両国の関係は再び悪化、[[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]はフランス軍をギュイエンヌ地方に派遣し、イングランド勢力の駆逐を試みたが失敗に終わっている<ref>朝治、p. 128</ref>。15世紀には、ギュイエンヌ地方はその独立性がほぼ保たれ、イングランド王からの抑圧はほとんど受けていなかった<ref name=A142>朝治、p. 142</ref>。[[1451年]]、イングランド国内が政情不安定の中、フランス王[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]はギュイエンヌ遠征軍を招集し、[[ジャン・ド・デュノワ|デュノワ伯]]を指揮官とした<ref name=A142 />。フランス軍は[[ブレイ]]、[[ブール (ジロンド県)|ブール]]、[[フロンサック]]、[[リブルヌ]]、[[サン・テミリオン]]などの都市を降伏させ、同年6月12日にはシャルル7世とギュイエンヌ地方の三部会との間で税金の免除などの条件を含む降伏条約が締結された<ref name=A142 />。しかし、条約に反して翌[[1452年]]夏からボルドー地方で税金が徴収され、ボルドー地方はイングランドと通じるようになった<ref name=A143>朝治、p. 143</ref>。同年10月23日、イングランド側のギュイエンヌ代官[[ジョン・タルボット (初代シュルーズベリー伯)|ジョン・タルボット]]はボルドーを奪還、リブルヌ、[[カスティヨン]]などの諸都市がイングランド軍に降伏した<ref name=A143 />。しかし、[[1453年]]7月17日タルボットに率いられたイングランド軍は[[カスティヨンの戦い]]で敗北し、その他の諸都市もフランス軍に降伏、以後アキテーヌはフランス王領となった<ref name=A144>朝治、p. 144</ref>。
 
== 歴代領主一覧 ==