「小宰相」の版間の差分

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== 生涯 ==
小宰相は[[統子内親王|上西門院]]([[鳥羽天皇]]の皇女で[[後白河天皇]]の同母姉)の[[女房]]で、宮中一の美女とうたわれた。平家物語からのエピソードのみになるが彼女が16歳のとき([[治承]]3年([[1179年]])頃?)に[[法勝寺]]の花見にお供した際に、これを見た中宮亮・平通盛は彼女に一目ぼれした。その後、[[和歌]]や恋文をしきりに贈るが3年たっても小宰相は返事をしなかった。
 
これが最後と思い、文を書き使いに渡したが、折悪しく取次の女房がおらず、使いが戻ろうとすると、ちょうど里から帰ってくる小宰相の車に行き合った。使いは文を車に投げ入れて去った。小宰相はとりあえず持ち帰ったが、御所で宮仕えしていたとき上西門院の前でこの文を取り落とし、女院はこれを拾って「あまり気が強いのもよくありませんよ」と、みじめな最期を遂げたという[[小野小町]]の例を出して、自ら硯を取り寄せて返事を書いてやるようにうながした。
 
こうして女院の仲立ちで通盛と小宰相は結ばれた。恋愛の末に結ばれたので、ふたりはたいそう仲睦まじかった。通盛は小宰相の他に政治的な必要で従兄の[[平宗盛]]の娘も妻にしていたが、こちらはまだ12歳程度の幼い少女なので手をつけることはなかった。
 
やがて、[[治承・寿永の乱]]がはじまり、通盛は各地を転戦するが、平家は[[源義仲]]に大敗を喫し、寿永2年([[1183年]])ついに都落ちを余儀なくされた。小宰相は通盛とともに海上を流浪した。平家は[[讃岐国]][[屋島]]に本営を置き、やがて[[摂津国]][[福原京|福原]]にまで進出を果たした。
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そこへ平家随一の剛勇で知られた弟の[[平教経|教経]]がやって来て、怒りながら「ここはこの教経が置かれるほどの危険な戦場ですぞ。そのような心がけではものの役に立ちますまいに」と兄をたしなめた。通盛ももっともなことと思い妻を船へ帰した。
 
合戦は平家の大敗に終わり、一門の多くの者が討ち死にし、通盛も[[佐々木俊綱]]に討ち取られまた船へ帰ってこなかった。
 
屋島へ向かう平家の船団の中で小宰相は、夫が討たれたとは聞いてはいたが、何かの間違いであろうと、生きて帰ることもあるかもしれないと心細く夫の帰りを待ち続けていた。
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人々は、夫に先立たれた妻は尼になるのが普通なのに、後を追うとは珍しいことだと感心し「忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫にまみえず」と(『[[史記]]』の故事をひいて)言い合った。
 
『[[建礼門院右京大夫集]]』にも上西門院の美人で有名だった女房らしく通盛の妻となった事は右京大夫にとっても意外だったようだが、夫の死の後を追ったことが「これまでにない契の深さよ」と京都でも評判になったと記されている。また右京大夫の知人が小宰相に思いをかけていた事も書かれている。
 
== 関連項目 ==