「北畠具教」の版間の差分

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その後、[[元亀]]元年([[1570年]])5月、[[出家]]して'''天覚'''<ref name="北畠氏の研究">大西源一『北畠氏の研究』 </ref>、更に'''不智斎'''と号し<ref name=日本大百科全書/>、三瀬谷(現在の三重県[[多気郡]][[大台町]])に移る。しかし、少なくとも[[天正]]元年([[1573年]])9月迄は具豊(信雄)に実権を渡しておらず、天正3年([[1575年]])6月の家督譲与まで具教、具房奉公人(教兼、房兼)の文書発給が続いている<ref>『織田権力の領域支配』岩田書院</ref>。
 
また、天正3年([[1575年]])に具教は隠居城として[[伊賀国]][[丸山城 (伊賀国)|丸山城]]の築城を決め、同地域の[[土豪]]を説得、天正4年([[1576年]])正月より人夫衆を動員し作事を行ったが、織田信長と不和になり三瀬館に引き上げた。具教と立場を失ったその側近達は信長に心服しておらず、[[元亀]]4年([[1572年]])3月に具教は[[西上作戦]]の途上であった[[武田信玄]]の陣に[[鳥屋尾満栄]]を遣わせ、信玄上洛の際には船を出して協力するという密約を結んでいた<ref name=日本大百科全書/>。また、信長に敵対する[[紀伊]][[熊野]]勢蜂起をめていたとされる<ref name=日本大百科全書/>。
 
天正4年([[1576年]])11月25日、具教信長と信雄の命を受けた旧臣([[長野左京亮]]、[[加留左京進]]([[藤方朝成]]の名代))たちの襲撃を受けて、子の徳松丸・亀松丸、および家臣の[[大橋長時]]・[[松田之信]]・[[上杉頼義]]ら(名が判明しているだけで14名の武士)共々殺害された<ref name=朝日日本歴史人物事典/><ref name=日本大百科全書/>。[[享年]]49。同時に長野具藤はじめ北畠一門の主な者が信雄の居城・[[田丸城]]において殺害された。これにより[[戦国大名]]としての北畠氏は完全に織田氏に乗っ取られた([[三瀬の変]])。
 
なお、具教の[[首級]]は、加留左京進の[[家臣]]である[[伊東重内]]らにより運び出されたが、変に気付き駆け付けた[[芝山秀時]]、[[大宮吉守|大宮多気丸]]らに奪い返され、秀時の父である[[芝山秀定]]により御所尾山に埋葬された<ref name="北畠氏の研究"/>。
 
== 人物・逸話 ==
* 具教は[[剣術]]を好み、修行の旅をする剣客を保護・援助していた。自身も[[塚原卜伝]]に剣や兵法を学び<ref name=日本大百科全書/>彼は卜伝から奥義である一の太刀を伝授されたといわれる。他にも[[上泉信綱]]からも剣を学んだ。具教は大和の[[柳生宗厳]]とは剣を通じて親交があり、上泉信綱に彼や宝蔵院[[胤栄]]を紹介するなど、剣豪たちの交流に一役買っていたといわれる。織田氏の刺客に襲撃された際も、太刀を手に19人の敵兵を斬り殺し100人に手傷を負わせたという<ref>『[[寛永諸家系図伝]]』の記述。</ref>(刀の刃が腹心の佐々木四郎左衛門尉により潰されており、抵抗できずに斬殺されたとも<ref name="勢州軍記"/>)。
* 父の晴具と同様に[[和歌]]を好んでいた<ref name=日本大百科全書/>。
* 暗殺された20年後、上三瀬の具教の末裔を名乗る住人が具教の菩提を弔うために現在の大台町にある北畠神社の場所に国司堂を建てたとされる<ref>[http://www.odaitown.jp/kankou/eventspot.html 大台町公式HP大台町のイベント・スポット]{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。