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冬将軍 (会話 | 投稿記録)
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'''金子 孫二郎'''(かねこ まごじろう、[[文化 (元号)|文化]]元年([[1804年]]) - [[文久]]元年[[7月26日 (旧暦)|7月26日]]([[1861年]])[[8月31日]]))は、[[幕末]]の[[水戸藩]]の[[郡奉行]]である。[[尊王攘夷]]派志士。[[幼名]]は子之次郎。[[仮名 (通称)|仮名]]は孫二郎、孫三郎。[[諱]]は教孝、[[号]]を錦村といった。[[位階]]は[[正四位|贈正四位]]。[[靖国神社]]合祀<ref>[[明田鉄男]][[編纂|編]]『幕末維新全殉難者名鑑1』([[新人物往来社]]、[[1986年]])ISBN 40頁参照。</ref>。
 
== 生涯 ==
== 井伊直弼暗殺後に上洛するが捕縛される ==
水戸藩士・[[川瀬教徳]]の第2子として生まれ、水戸藩士・金子孫三郎能久の養子となった。はじめ小普請組となる。[[文政]]12年([[1829年]])、水戸藩主継嗣問題が起こると、父・教徳らとともに[[徳川斉昭]]を擁立した。斉昭が藩主になると、その下で歩行目付、吟味役、奥右筆を経て郡奉行となった。[[弘化]]元年([[1844年]])、[[天保]]の改革推進中の斉昭が隠居謹慎の幕命を受けると、雪冤運動に奔走して禁固刑に処せられた。斉昭が政界復帰を果たすと、それとともに孫二郎も復帰し、再び郡奉行となって[[安政]]の改革を進めた。民政に手腕を発揮し、郡奉行・吉成信貞らとともに徳川斉昭を助けた。
川瀬家に誕生するが、[[水戸藩]]士・金子能久の[[養子]]となる。[[1829年]]([[文政]]12年)の水戸藩主継嗣問題では、[[徳川斉昭]]擁立で同志と尽力する。その功がみとめられ、斉昭に取り立てられ、[[天保の改革]]に参画する。[[1858年]]([[安政]]5年)の戌午の密勅問題では、他の[[攘夷派]]が[[密勅]]を他藩へ廻達するよう求めたが、金子は藩主による沈静化の要望や[[安政の大獄]]に配慮し、自重する態度を見せる。しかし、背後では[[高橋多一郎]]らと協力し、[[大老]]・[[井伊直弼]][[暗殺]]による[[幕政改革]]をもくろみ、[[薩摩藩]][[尊攘派]]との協力を深め、着々と準備を進めた。[[1860年]]([[安政]]7年)に[[脱藩]]。[[江戸]]で井伊暗殺成功の報を得て[[上洛]]を試みるが、[[伊勢国]][[四日市]]で捕縛された。江戸で[[斬首]]となった。明治維新後、正四位を[[贈位]]される<ref>家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典(2)』(新人物往来社、1988年) 399頁参照。</ref>。
 
安政5年([[1858年]])に勅書問題が起こると、勅書返納に反対して奔走したが失敗に終わった。翌6年([[1859年]])に[[安政の大獄]]が起こると、かねてから計画していた[[大老]]・[[井伊直弼]]要撃を企て、[[高橋多一郎]]・[[関鉄之介]]らとともに脱藩して[[江戸]]や[[京都]]に潜伏し、安政7年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]([[1860年]][[3月24日]])、[[桜田門外の変]]を起こすに至った。孫二郎自身は、直接参加しなかったが、成功の知らせを受けて薩摩藩士・[[有村雄助]]とともに[[大坂]]で後挙を謀ろうとしたが、[[伏見]]で捕らえられ、[[江戸]]に送られて斬罪に処せられた。明治維新後、正四位を[[贈位]]される<ref>家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典(2)』(新人物往来社、1988年) 399頁参照。</ref>。
 
== 年譜 ==
*[[1804年]] 川瀬家に生まれるが、 水戸藩士・金子能久川瀬教徳第2子として生まれる。
*[[1829年]]  藩主継嗣問題で徳川斉昭を擁立。
*1830年 - 1844年 郡奉行。
*[[1858年]]  勅書問題で奔走。
*[[18601844]]  桜田門外の変禁固刑加わ処せられる。
*1853年 復帰して郡奉行再勤。
*[[1861年]]  [[斬首刑]]に処せられる。[[享年]]58。
*[[1858年]]  勅書問題で奔走。
*1860年 桜田門外の変に加わる。
*[[1861年]]  [[首刑]]に処せられる。[[享年]]58。
 
== 参考文献 ==