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[[File:Saga Civic Hall 2017.jpg|thumb|200px|right|閉鎖された佐賀市民会館]]
[[File:武家屋敷の門 Gate of samurai residences - panoramio.jpg|thumb|200px|right|武家屋敷の門(旧水町家)]]
水ヶ江は佐賀市中央部の地名。[[佐賀城]]の東、[[国道264号線]]と[[国道208号線|208号線]]の間に南北に広がる。東端を裏十間川、南東端を八田江が流れる。また、城内から[[多布施川]]が流入し、中南部を通って八田江に合流する。佐賀平野の[[クリーク]]地帯であり、その他にも水路は多い。中央を南北に[[佐賀県道30号佐賀川副線|県道30号線]]が走り、県道を挟んで北から東西交互に1~6丁目が並ぶ。北から時計回りに[[松原 (佐賀市)|松原]]、材木、朝日町、南佐賀、本庄町袋、中の館町、[[城内 (佐賀市)|城内]]に接する。
 
国道と県道沿いに企業や商店が並び、ほかは住宅地となっている。1丁目に在った[[佐賀市民会館]]は老朽化により[[2016年]]に休館(事実上の閉鎖)<ref>[http://www.saga-s.co.jp/articles/-/6219 市民会館跡、当面は駐車場 7月に解体着手]佐賀新聞 - 2016年9月24日</ref>、[[佐賀県立病院好生館]]は敷地が狭小のため[[2013年]]に嘉瀬地区に移転した。跡地には佐賀市医師会立看護専門学校(佐賀市新中町)、休日夜間こども診療所・休日歯科診療所(佐賀市兵庫北)などが移転進出する<ref>[http://www.saga-s.co.jp/articles/-/8485 診療所、看護学校合築へ 好生館跡地]佐賀新聞 - 2016年8月18日</ref>。
 
1丁目には歴代藩主が「国家安泰・万民安楽」を祈願した石塔や[[佐賀の乱]]記念碑がある万部島があり[[佐賀城公園]]の一部となっている。2丁目に[[大隈重信]]の生誕地があり国指定史跡の生家を中心に大隈重信記念館として整備されている。3丁目の大木公園は[[大木喬任]]の生誕地と伝えられ記念碑が立つ。また2丁目には[[後多久氏]](水ヶ江造寺氏)の屋敷門や、鍋島家の家老・水町氏の屋敷門として建設された3間1尺の薬医門が残っており、水町氏の門は佐賀市の重要文化財に指定されている。なお、この屋敷は[[上海事件]]で著名な[[空閑昇]]少佐の生家でかつては「空閑昇少佐生家」と記された石碑もあったが戦後に撤去されている。
 
かつての片田江縦小路・水ヶ江(虎次)縦小路である県道30号線を始め、佐賀城下の諸小路が広く残っており、前述の記念館、屋敷門などと合わせ城下町の面影を広く感じることのできる地区となっている。
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== 歴史 ==
「水ヶ江」は「水が家」の意味で、「龍は水を以って家となす」の古事から、龍造寺氏の龍と水を結びつけてつくられた地名で、水ヶ江五丁目と中の館町にわたる範囲に[[水ヶ江城]]があった。現在の水ヶ江は[[江戸時代]]は佐賀城下の武家屋敷地で、共に縦小路と横小路からなる水ヶ江小路の大部分と片田江小路の中南部に当たり、本来は水ヶ江とは南十間端より南の水ヶ江小路付近を指す地名である。水ヶ江小路は虎次小路とも言い、現在の龍谷高校東交差点から南に走り横小路交差点から東横小路と西横小路などがあった。『弘化二巳総着到』(鍋島報效会所蔵の佐賀藩士名簿)によると居住する武士数は諸小路中最大の54名。築地[[築地反射炉]]の建設などに参画し、藩の火術師範となった本島籐太夫の屋敷はこの地にあった。片田江小路は龍谷高校北交差点から北に走り裏十間川に至る小路。北から馬責馬場、通小路、椎小路(現在の国道264号線でこれより北は[[松原 (佐賀市)|松原]]となる)、花房小路、中ノ橋小路、枳小路、会所小路の横小路があり、まとめて片田江七小路と呼ばれている。それぞれ縦小路から東に走り裏十間端小路に達する。会所小路のさらに南にある十間端小路も含め現在もそのまま市道などとして使われている。同じく『弘化二巳総着到』によると、それぞれの小路毎に居住する武士数は片田江小路が30人、馬責馬場が10人、通小路が17人、椎小路が16人、花房小路が15人、中ノ橋小路が12人、枳小路が10人、会所小路が18人、十間端小路が17人。いずれも中級武士が多い。この裏十間端小路に沿って流れる裏十間川は武家屋敷地である水ヶ江・片田江と[[町人]]町である材木町との境界で、材木町から橋を渡って武家屋敷地の小路に入る場合は必ず鍵型に曲がるようになっており、防衛上の措置であるとみられている。また、裏十間川にかかる橋の一つに「横目橋(じろりばし)」がある。お互いに敬遠・対立する武士と町人が橋ですれ違うときにじろりと横目で睨みながら渡っていた、という意味で呼ばれたもので佐賀城下の珍名橋として知られている。なおこの文書には大隈重信の父、大隈与一左衛門信保の名が会所小路にある。
 
[[1881年]](明治14年)に水ヶ江町となり、[[1889年]](明治22年)に近代市町村制の施行により佐賀市が発足するとその一部となる。住居表示により水ヶ江町に赤松町、本庄町袋、北川副町木原の一部を加えて水ヶ江1~6丁目となった。
 
=== 寺社 ===
*宗龍禅寺 - 天正16年(1588)、[[龍造寺隆信]]の冥福を祈る菩提寺として[[鍋島直茂]]が佐賀城の[[鬼門]]に建立し守護神とした名刹。[[鍋島騒動|佐賀の化け猫騒動]]の舞台の一つでもある。[[佐賀の乱]]の際には[[前山清一郎]]率いる中立党の本部となった。また、水ヶ江出身の[[空閑昇]]の墓がある。 
*慶雲院 - [[龍造寺家兼]]夫妻と父[[龍造寺康家]]を葬ったと伝わる。
*養福寺 - 慶長年中(1596〜1614)に[[陽泰院]](鍋島直茂継室)に奉公していた田崎氏の妻が、主君の菩提と戦死した夫子を弔うために建立を願い出て認められたと伝わる。
*[[龍造寺八幡宮]]下の宮 - 1985年(昭和60年)創建。
 
== 交通 ==
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== その他施設 ==
*[[佐賀大学教育学部附属幼稚園]]
*[[龍谷中学校・高等学校]]
*[[山本常朝]]生誕地
*鍋島家別邸跡
*[[自民党]]佐賀県支部連合会
*[[全労済]]佐賀県本部
*[[日本福音ルーテル佐賀教会]]
*佐賀キリスト教会[[日本バプテスト連盟]]
*[[金光教]]佐賀教会
*[[幸福の科学]]佐賀支部
 
== 脚注 ==