「色部久長」の版間の差分

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慶応4年([[1868年]])、[[鳥羽・伏見の戦い]]を皮切りに戊辰戦争が勃発し、新政府軍と旧幕府軍で全国各地で衝突が発生した。米沢藩は奥羽越列藩同盟に参加し、薩長を中心とした新政府軍が[[北陸道]]を北へ進軍するのと対峙した。米沢藩が同盟軍の補給拠点である新潟港の警備を担当することになると、色部がその総督に命じられた。色部は藩兵600人を引き連れ、現在の[[新潟県]]新潟市にある西堀の[[光林寺 (新潟市)|光林寺]]に本陣を置いた。
 
新政府軍による海上などからの猛攻を受け、新潟の町は焼け野原になった。色部は新潟の町の戦争被害拡大を懸念して兵の撤退を決定した。米沢藩兵が敗走する中、色部は敗戦の責任を取るべく、僅か数名の兵を引き連れて新政府軍の本拠地であった[[関屋 (新潟市)|関屋]]へ斬り込んだ。奮闘するも敵の攻撃に被弾し助からないと悟り、敵に首級を取られまいと新潟市の[[中央区 (新潟市)|中央区]]関屋下川原新田(現在の[[新潟県立新潟高等学校]]周辺)にあった茄子畑にて[[自刃]]し、[[部下]]に[[介錯]]させた。享年44。
 
== 色部家断絶・赦免 ==
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