「水ヶ江」の版間の差分

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1丁目には歴代藩主が「国家安泰・万民安楽」を祈願した石塔や[[佐賀の乱]]記念碑がある万部島があり[[佐賀城公園]]の一部となっている。2丁目に[[大隈重信]]の生誕地があり国指定史跡の生家を中心に大隈重信記念館として整備されている。3丁目の大木公園は[[大木喬任]]の生誕地と伝えられ記念碑が立つ。また2丁目には[[後多久氏]](水ヶ江龍造寺氏)の屋敷門や、鍋島家の家老・水町氏の屋敷門として建設された3間1尺の薬医門が残っており、水町氏の門は佐賀市の重要文化財に指定されている。なお、この屋敷は[[上海事件]]で著名な[[空閑昇]]少佐の生家でかつては「空閑昇少佐生家」と記された石碑もあったが戦後に撤去されている。
 
かつての片田江縦小路・水ヶ江(虎次)縦小路である県道30号線を始め、佐賀城下の諸小路が広く残っており、前述の記念館、屋敷門などと合わせ城下町の面影を広く感じることできる。また、幕末に活躍した[[佐賀の七賢人]]の内、大隈重信と大木喬任は水ヶ江の出身であり、[[佐野常民]]は水ヶ江の佐野家に養子となるなど明治維新ともかかわりの深いとなっている。
 
面積は約0.79㎢。平成27年住民基本台帳による世帯数及び男女別人口は以下の通り。
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== 歴史 ==
[[File:Okuma Shigenobu Kyutaku.JPG|thumb|200px|right|大隈重信旧宅]]
[[File:Okuma Memorial Museum Saga.JPG|thumb|200px|right|大隈重信記念館]]
[[File:Manbutō eleven tower-shaped monuments in Saga.JPG|thumb|200px|right|万部塔]]
[[File:Manbushima north Rokujizō close up.JPG|thumb|200px|right|六地蔵。二基あるうちの北側]]
「水ヶ江」は「水が家」の意味で、「龍は水を以って家となす」の古事から、龍造寺氏の龍と水を結びつけてつくられた地名で、水ヶ江五丁目と中の館町にわたる範囲に[[水ヶ江城]]があった。現在の水ヶ江は[[江戸時代]]は佐賀城下の武家屋敷地で、共に縦小路と横小路からなる水ヶ江小路の大部分と片田江小路の中南部に当たり、本来は水ヶ江とは南十間端より南の水ヶ江小路付近を指す地名である。水ヶ江小路は虎次小路とも言い、現在の龍谷高校東交差点から南に走り横小路交差点から東横小路と西横小路などがあった。『弘化二巳総着到』(鍋島報效会所蔵の佐賀藩士名簿)によると居住する武士数は諸小路中最大の54名。[[築地反射炉]]の建設などに参画し、藩の火術師範となった本島籐太夫の屋敷はこの地にあった。片田江小路は龍谷高校北交差点から北に走り裏十間川に至る小路。北から馬責馬場、通小路、椎小路(現在の国道264号線でこれより北は[[松原 (佐賀市)|松原]]となる)、花房小路、中ノ橋小路、枳小路、会所小路の横小路があり、まとめて片田江七小路と呼ばれている。それぞれ縦小路から東に走り裏十間端小路に達する。会所小路のさらに南にある十間端小路も含め現在もそのまま市道などとして使われている。同じく『弘化二巳総着到』によると、それぞれの小路毎に居住する武士数は片田江小路が30人、馬責馬場が10人、通小路が17人、椎小路が16人、花房小路が15人、中ノ橋小路が12人、枳小路が10人、会所小路が18人、十間端小路が17人。いずれも中級武士が多い。この裏十間端小路に沿って流れる裏十間川は武家屋敷地である水ヶ江・片田江と[[町人]]町である材木町との境界で、材木町から橋を渡って武家屋敷地の小路に入る場合は必ず鍵型に曲がるようになっており、防衛上の措置であるとみられている。また、裏十間川にかかる橋の一つに「横目橋(じろりばし)」がある。お互いに敬遠・対立する武士と町人が橋ですれ違うときにじろりと横目で睨みながら渡っていた、という意味で呼ばれたもので佐賀城下の珍名橋として知られている。なおこの文書には大隈重信の父、大隈与一左衛門信保の名が会所小路にある。
 
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*養福寺 - 慶長年中(1596〜1614)に[[陽泰院]](鍋島直茂継室)に奉公していた田崎氏の妻が、主君の菩提と戦死した夫子を弔うために建立を願い出て認められたと伝わる。
*[[龍造寺八幡宮]]下の宮 - 1985年(昭和60年)創建。
 
=== 史跡・文化財 ===
*大隈重信旧宅 - 2丁目。国史跡。2度に渡り[[総理大臣]]を務めた大隈重信の生家。会所小路にあり、佐賀地方に多い「コ」の字の形をした、一部平屋、一部2階建ての住宅。
*大隈重信記念館 - 2丁目。国登録有形文化財。上記旧宅の敷地内にある。大隈侯生誕125周年を記念し、[[早稲田大学]]名誉教授である[[今井兼次]]が設計を行い[[1966年]]に竣工した。
*旧百﨑家住宅主屋 - 3丁目。国登録有形文化財。藩政期には佐賀藩の典医を務めた[[肥前石井氏|石井家]]の武家屋敷地であった。明治前期の建築と考えられる[[寄棟造]]茅葺の主屋に増築された離れが附属する。
*武家屋敷の門 - 2丁目。市重要文化財。元鍋島家の家老水町氏の屋敷門。多良の名工、託田の番匠の手によるものと伝わる。構造形式から江戸後期のものと推定されている。
*万部塔と六地蔵 - 1丁目。市重要文化財。万部塔は佐賀藩代々の藩主による法華経一万部読誦記念の石塔群。六地蔵は二基あり、龍造寺家兼に所縁があると言われている。
 
== 交通 ==