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この滞日期には、『[[進化論]]』(4回)、『動物変進論』(3回)、『動物変遷論』(9回)の連続講義を始め、陸貝、ホヤ、ドロバチ、腕足類、ナメクジ、昆虫、氷河期、動物の生長、蜘蛛、猿、などに関する多くの学術講義や一般向け講演をした。[[江木高遠]]が主宰した『江木学校講談会』の常任講師であった。(『動物変遷論』は、1883年、モースの了解のもとに[[石川千代松]]が、『動物進化論』の名で訳書を出版した。)
 
貝塚の土器から興味が広がり、1879年初から、[[蜷川式胤]]に日本の陶器について学んだ。5月初めから40日余、[[九州]]、[[近畿]]地方に採集旅行をし、陶器作りの見学もした。この折に[[高安古墳群|大阪府八尾市の高安古墳群]]を調査し、開山塚古墳の内部をスケッチを添え論文「日本におけるドルメン」を発表している。
 
1879年7月、[[大森貝塚]]発掘の詳報、"[[#おもな著書|Shell Mounds of Omori]]"を、Memoirs of the Science Department, University of Tokio(東京大学理学部英文紀要)の第1巻第1部として出版した。ときの東大綜理[[加藤弘之]]に、「学術報告書を刊行し、海外と文献類を交換するよう」勧めたのである。(この中で使われた"cord marked pottery"が、日本語の『[[縄文土器]]』となった。)