「ペトラルカ」の版間の差分

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[[1327年]]、アヴィニョンのある教会でペトラルカはラウラの顔を初めて見たというが、この女性についてはほとんど知られていない。ラウラが実際に誰かについては諸説あり、ラウラという名前は、ペトラルカがこの女性に与えた変名である可能性もある(恋愛詩において相手の女性を匿名にすることは古典期のラテン詩人にも類例がある)。謎の恋人とペトラルカは、実際には交際を持たなかった可能性が強い。ペトラルカとラウラはその後、会うこともなく、[[1348年]]にラウラは死亡したという。ペトラルカはその後も、ラウラを失った悲嘆を歌う詩など、ラウラへ充てた詩を書き続けた。
 
このほか『凱旋』(1352年)『アフリカ』(1338年)といった壮大な叙事詩も書き残している。ペトラルカは、後半生を北イタリアを旅行しつつ、学者として過ごした。生涯結婚しなかったペトラルカであるが、3人の子をもったことが知られている。子どもたちの母親は不詳のままである。
ペトラルカは、後半生を北イタリアを旅行しつつ、学者として過ごした。生涯結婚しなかったペトラルカであるが、3人の子をもったことが知られている。{{要出典範囲|date=2015年11月21日 (土) 13:07 (UTC)|子どもたちの母親は不詳であり、あるいはそれぞれの母親が異なる可能性もある。}}
 
 
[[1347年]]と[[1354年]]、ローマの再興を図る[[ニコラ・ディ・リエンツォ]]のコーラ革命に期待を寄せるがコーラの失脚(処刑)で政治に失望する。[[1353年]]から8年間はミラノの[[ヴィスコンティ家]]のもとに身を寄せるが、ミラノとフィレンツェは対立関係にあったため、友人ボッカッチョからも批判を受けた。1361年、ベェネツィアへ移住する。