「寛永の大飢饉」の版間の差分

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大飢饉の背景としては、1630年代から1640年代における[[東アジア]]規模での異常気象のほか、江戸時代初期の[[武士]]階級の困窮、[[参勤交代]]や[[手伝普請]]、将軍の[[上洛]]や[[日光社参]]などのように、[[武断政治]]を進めるための幕府や藩の多額の出費、年貢米を換金する市場の不備などが、様々な要因があげられる。
 
幕府は武士の没落を驕りや華麗奢侈によるものととらえ、[[武家諸法度]]などで倹約を指示していた。例えば、[[1635年]]の武家諸法度改正で、幕府は参勤交代を1年交代で行うように義務付けているが、その一方で参勤交代にあまり費用をかけすぎないように呼び掛けている。武士の困窮は[[百姓]]に対するさらなる収奪を招き、大飢饉の下地になったと言われる。
 
島原の乱から寛永の飢饉、[[牢人]]の不満を背景として[[徳川家綱]]への代替わりの時に起こった討幕計画である[[慶安の変]]などを契機に幕府は武断政治の限界を思い知らされた。そして幕政は、百姓撫育(百姓成立ともいう。すなわち百姓が戦乱と飢饉から解放されて、安定した生活を営めるような状況の確立)を推し進め、諸大名に課せられていた普請役は激減し、参勤交代に代替された。また諸藩も遅れて[[藩政改革]]に乗り出した。