「国司親相」の版間の差分
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== 生涯 ==
天保13年(1842年
[[嘉永]]6年([[1853年]])、[[アメリカ合衆国]]の[[マシュー・ペリー]]が[[浦賀]]に[[黒船来航|来航]]して以来、日本では[[尊王攘夷]]論が高まり国内騒然し、文久3年(1863年)5月10日、親相は[[久坂玄瑞]]らと共にアメリカ船ペングローブ号を砲撃し、[[下関海峡]]を封鎖、朝廷からも褒勅の沙汰を賜わった。この功績により、親相は下関防備総奉行に任じられる。しかし[[八月十八日の政変]]で長州藩が京都から追放されると、親相は家老に昇格した上で、同じく家老の[[益田親施]]や[[福原元たけ|福原元{{CP932フォント|僴}}]]、さらに久坂・[[来島又兵衛]]・[[真木保臣]]らと共に京都における長州藩の影響力を取り戻そうと挙兵して、翌元治元年(1864年)[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]に[[禁門の変]]を引き起こした。
だが、[[薩摩藩]]・[[会津藩]]連合軍の前に大敗し、来島や久坂と真木は[[自
やがて[[長州征討|第一次長州征伐]]が始まると、征長総督(総大将)に[[徳川慶勝]]、参謀に[[西郷隆盛]]が就任した大軍が長州に押し寄せてくる。そして西郷が長州藩に対して、責任を取る形で親相ら三家老の切腹を要求したため、親相は徳山澄泉寺にて
辞世の句「よしやよし 世を去るとても 我が心 御国のために なほ尽さばや」「君がため つくせやつくせ おのがこの 命一つを なきものにして」。
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