「原子力撤廃」の版間の差分
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== 経緯 ==
=== 日本
[[1953年]]1月、[[アメリカ合衆国大統領]]に就任した[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]は、同年12月の[[国連総会]]で演説した際に「[[平和のための原子力]]」を唱えた。具体的にはそれまでのアメリカによる核の独占から、原子力技術を商品として輸出するという国策の転換が行われたのである。これを受けて、日本でも戦前のエネルギーを敵対国に頼っていたため、禁輸されて回避に努めていた対米戦争が始まったため、 原子力発電へのエネルギー転換を主張する勢力が登場した。政界では、[[中曽根康弘]]を中心とする勢力、経済界では[[正力松太郎]]を中心とする勢力である{{Sfn|すが秀実|2012|p=21}}。政界で、原子力の導入に熱心だったのが、当時[[改進党]]の国会議員だった[[中曽根康弘]]である<ref group="注釈">中曽根の原子力行政への関わりは、[[山岡淳一郎]]『原発と権力-戦後から辿る支配者の系譜』([[ちくま新書]]、2011年9月、ISBN 978-4-480-06628-2)の第一章「『再軍備』がおしあけた原子力の扉」に詳しい。</ref>。内務官僚から政治家に転じた中曽根は、1951年1月、対日講和交渉で来日した[[ジョン・フォスター・ダレス|ダレス]]大使に「建白書」を差し出し、原子科学を含めて科学研究の自由(原子力研究の解禁)と[[零戦]]への脅威から戦後に日本が禁止された民間航空の復活を要求した。そして1953年のアメリカの国策転換を受けて、[[1954年]]3月には、中曽根を中心とする改進党の国会議員が、[[自由党]]及び[[日本自由党 (1953-1954)|日本自由党]]の賛同を得て、1954年度予算案に対する3党共同修正案に日本初の原子力予算案を盛り込み、国会に提出。予算案は成立した<ref name="本田">{{harvnb|本田宏|2005|pp=47-48}}</ref>{{refnest|group="注釈"|この日本初の原子力予算では全体の94%が、目途も立っていない原子炉建造費にいきなり充てられるというものであった<ref name="本田" />。}}。原子力予算の突然の出現に狼狽した学会は、政府の原子力政策の独走に歯止めをかけるため、「公開、民主、自主」を原則とする「[[原子力3原則]]」を、1954年4月の[[日本学術会議]]の総会で可決した{{Sfn|高木仁三郎|水戸巌|反原発記者会|1987|p=146}}{{refnest|group="注釈"|[[中曽根康弘]]が『原子力開発十年史』(著・出版:日本原子力産業会議、1965年)に寄稿した文中「私が戦争中海軍に動員されて高松にいた時、広島の原爆雲を見た。この時私は、次の時代は原子力の時代になると直感した。」に対し、「まかり間違っても、キノコ雲をみて、次の時代は原子力平和利用の時代になると直感するなんて芸当は絶対にできっこないのだ。」と断じている{{Sfn|高木仁三郎|水戸巌|反原発記者会|1987|pp=147-149}}。}}。
日本では対米戦に最終的に追い込まれた背景に石油などエネルギーの対外依存状態でアメリカに輸出禁止されたことにあったため、正力など戦前のエネルギー資源の無い日本へのエネルギー禁輸の打撃の大きさを知る者達ほど日本がエネルギー自給率を高めて、他国から政治的カードにエネルギーが使われることが無いようにとの危機感から原子力を必要だとした。更に当時のエネルギーを担っていた石油を燃やす火力発電所から発生する[[光化学スモッグ]]が社会的問題となるが経済成長の高まるエネルギー需要を満たす代替として適切だとして原子力発電を推進する声もあって国内に建設された。それでも1972年時点での日本の原子力発電所は5基で182万3000kWを発電していた。原子力が占める割合は日本全体の発電量の3%以下であった。燃料確保からエネルギー効率の向上まで日本のエネルギー政策を一元化するために1973年7月には通産省の鉱山石炭局と公益事業局が協力して、安定的なエネルギー確保を目的とした資源エネルギー省が創設された。当時はエネルギーは第一に石油であり、原子力エネルギーは
石油に比べると注目されていなかった。しかし、11月に第四次[[中東戦争]]が勃発して[[アラブ石油輸出国機構]](OPEC)が原油価格を70%も引き上げたことから日本にも深刻な[[オイルショック]]が到来し、恐れられていた再びエネルギーがカードに使われる自体が起きた。[[石油危機]]での中東諸国からの石油カードによるエネルギー不足と石油価格の高騰で欧米諸国は軒並み不景気に陥る。日本も[[消費者物価指数]]で1974年に23%上昇し、「[[狂乱物価]]」という造語まで生まれた。インフレーション抑制のために公定歩合の引き上げが行われ、企業の設備投資などを抑制する政策がとられた。結果として、1974年には-1.2%という戦後初のマイナス成長を経験し、[[高度経済成長]]が終焉を迎えた。日本も海外に依存していた石油の産油国による意図的な高騰攻撃で戦後初のマイナス成長と財政赤字に陥ったことから、再びエネルギーを海外に依存することの危険性への対策として日本で自給出来るエネルギーベースとして原子力発電が広く注目される。欧米諸国や西側諸国でも石油危機による産油国の石油禁輸による経済的ダメージの余りの大きさから国際的にも国内的にも代替エネルギーとして原子力発電の重要性が高まった。日本の政策でも石油危機による代替となる自給出来るエネルギーとして原子力が優先され、1975年には原子力の発電量は10基530万kWに拡大し、日本は発電量を公表していないソ連を除いて、アメリカ、イギリスに次ぐ3番目の原発大国に成長することでエネルギー自給率を高めた<ref>日本原子力産業会議 『原子力のあゆみ』、2000年。ISBN 978-4889110203</ref>。しかし、[[中村政雄 (ジャーナリスト)|中村政雄]]は、[[1979年]]の[[スリーマイル島原子力発電所事故|スリーマイル島原発2号機の事故]]以降、日本国内では原発賛成が減って行った、と評している{{Sfn|中村政雄|2004|p=41}}。日本の反原発運動の大きな転換点は、[[1986年]]の[[チェルノブイリ原発事故]]である。チェルノブイリ原発事故は、その規模の大きさと深刻さから世界的に大きく報道された。原子力事故の危険や放射性廃棄物の処理問題など、それまであまり注目されることのなかった問題が注目されるきっかけになった。[[1986年]]8月、[[広瀬隆]]は著書『東京に原発を!』の改訂版を出版し<ref group="注釈">初版は[[JICC出版局]]から1981年に出版されていた。1986年(昭和61年)8月に[[集英社文庫]]から改訂版が出版された。</ref>、続いて『危険な話』を執筆した。広瀬の著書は30万部を超える大ヒットとなり、広瀬の講演会は東日本を中心に頻繁に開催された<ref group="注釈">この状況は「ヒロセタカシ現象」とも呼ばれた{{要出典|date=2015-10-29}}。</ref>。その一方で、[[1988年]]に[[日本科学者会議]]が開催したシンポジウムでは、複数の研究者が広瀬隆の主張内容を「誤りと扇情的な筆致の問題点」とし反論している{{Sfn|「政界ジャーナル」編|1989}}。[[1989年]]には「原発いらない」と投票用紙に正式に書ける[[国民投票]]が実在した<ref>{{Cite journal|和書|journal=[http://www.rollingstonejapan.com/magazines/archive/2013-04/ Rolling Stone 日本版]{{リンク切れ|date=October 2017}} |date=2013年4月号 |title=特集・日本の未来を話そう 佐藤タイジ×曽我部恵一×加藤ひさし×[[下村健一]](元内閣官房審議官) |pages=pp. 40- }}2013年4月11日閲覧。</ref>。すなわち、同年7月23日、[[第15回参議院議員通常選挙]]の名簿に登載された政党名「原発いらない人びと」の公式な略称である。
▲経済界では[[読売新聞]]社主と[[日本テレビ]]社長を務めた[[正力松太郎]]が、アメリカとの人脈をバックに首相の座を狙ったという意見を評論家の[[有馬哲夫]]は述べている{{Sfn|有馬哲夫|2008|p=35}}<ref group="注釈">有馬は正力が[[CIA]]エージェントとして「ポダム」の暗号名を持つとも主張している{{要出典|date=2015-10-29}}。</ref>。戦後[[公職追放]]から解かれると、正力は読売グループを総動員して原子力平和利用啓蒙キャンペーンを展開し、[[1955年]]には[[衆議院議員]]に当選{{Sfn|有馬哲夫|2008|p=81}}。同年財界人を説得して「原子力平和利用懇談会」を立ち上げ、同じ年の5月には、アメリカの「原子力平和利用使節団」を日本に招いた。同使節団は軍事企業のジェネラル・ダイナミックス社や米国の核開発を先導してきた科学者、民間企業の幹部からなるものである。さらに同年11-12月には、読売新聞社はアメリカ大使館と一緒になって[[日比谷公園]]で原子力の「平和利用」を訴える大イベントとして「原子力平和利用博覧会」を開催し、36万人の入場者を得た。その後、1956年から1957年にかけて、名古屋、京都、大阪、広島、福岡、札幌、仙台、水戸、高岡と全国各地を巡回している{{refnest|group="注釈"|有馬はこの博覧会の成功を機に、CIAや合衆国情報局と正力の間に亀裂が発生し、徐々に拡大していったとしている{{Sfn|有馬哲夫|2008|pp=123-124}}。}}。1956年1月には[[原子力委員会]]の発足と同時に委員長に就任し、5月に[[科学技術庁]]が発足すると、初代科学技術庁長官に就任。こうして正力は名実ともに原子力行政のトップの座につき、日本の原子力行政を推進していくことになる。
同年6月、この頃に小説「未来(ミキ)が原発神(アトムのかみ)に勝てたわけ」<small>(築地書館、1989年6月、ISBN 978-4-8067-5676-7)</small>を発表した作家の[[荒井潤]]<ref>{{Cite web |url=http://iss.ndl.go.jp/books?op_id=1&any=%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E3%81%8C%E5%8E%9F%E7%99%BA%E7%A5%9E%E3%81%AB%E5%8B%9D%E3%81%A6%E3%81%9F%E3%82%8F%E3%81%91&display=&ar=4e1f |title=国立国会図書館サーチ 検索結果「未来が原発神に勝てたわけ」 |accessdate=2013-04-11 }}</ref>を党首とする「原発いらない人びと」が結成され、比例区から9名、選挙区から1名が立候補した。立候補者には、作家の[[今野敏]]<ref>{{Cite web |url=http://www.sakkatsu.com/author/detail/12191/ |work=小説総合情報サイト |title=今野敏 |publisher=さっかつ |accessdate=2013-04-11 }}</ref>や、現在「東電株主代表訴訟」の原告団事務局長を務める[[木村結]]<ref>{{Cite news |url=http://www.asahi.com/news/intro/TKY201210180694.html |newspaper=朝日新聞 |date=2012-10-19 |title=「ひと」‐木村結 |accessdate=2013-04-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130514203853/http://www.asahi.com/news/intro/TKY201210180694.html |archivedate=2013年5月14日 |deadlinkdate=2017年9月 }} </ref>を始めとする議員経験の無い市民がいた<ref>{{Cite web |url=http://ceron.jp/url/www.youtube.com/watch?v=Xgdjb3V2FpU |publisher=セロン |title=【政見放送】原発いらない人びと-Youtube |date=2011-03-26 |accessdate=2013-04-11 }}{{リンク切れ|date=October 2017}}</ref>が全員落選した<ref>{{Cite journal|和書|author=安藤丈将 |title=脱原発運動と国政選挙-1989年参議院議員選挙の「原発いらない人びと」を中心に |url=http://repository.musashi.ac.jp/dspace/bitstream/11149/1745/1/soc_2015no17_002.pdf |journal=ソシオロジスト : 武蔵社会学論集 |publisher=武蔵大学社会学部 |volume=17 |issue=1 |pages=31-65 |format=PDF |year=2015 |naid=40020403098 }}</ref>。
2000年代に入り、[[地球温暖化]]問題が注目されるようになると、二酸化炭素を出さないとして
[[ファイル:Anti nuclear rally in Tokyo on Sunday 27 March 2011.JPG|thumb|right|200px|東京の一地域で行われた反原発デモ]]
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[[公安調査庁]]は、[[中核派]]や[[革マル派]]など[[左翼]]の[[過激派]]([[新左翼]]や[[極左]]に分類される)が、反原発運動の高まりを好機と見て反原発を訴えながら活動を活発化させる一方で自派の機関紙やビラを配布するなどの宣伝活動に取り組み勢力拡大を図っているとしている<ref>{{Cite journal |和書|url=http://www.moj.go.jp/content/000084409.pdf |title=内外情勢の回顧と展望 |chapter=第3 2 東日本大震災及び福島第一原発事故をめぐる動向 (2) 福島第一原発事故を機に反原発運動が活発化 |publisher=公安調査庁 |format=PDF |page=p. 57 |date=平成24年(2012年)1月 |accessdate=2012-03-18 }}</ref>。
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他方で[[福島第一原子力発電所事故]]後は、「山河を守れ」「国土を汚すな」と[[西尾幹二]]<ref>{{Cite book|和書|author=西尾幹二 |title=平和主義ではない「脱原発」-現代リスク文明論 |publisher=[[文藝春秋]] |date=2011-12 |isbn=978-4-16-374890-0 }} {{要ページ番号|date=2015-10-29}}</ref>、[[竹田恒泰]]<ref>{{Cite book|和書|author=竹田恒泰 |title=これが結論! 日本人と原発 |publisher=[[小学館]] |series=小学館101新書 128 |date=2012-03 |isbn=978-4-09-825128-5 }} {{要ページ番号|date=2015-10-29}}</ref>や[[勝谷誠彦]]<ref group="注釈">2012年7月2日に放映されたワイドショー『[[スッキリ!!]]』では、安全対策が不十分なまま、原発素人の政治家連中が見切り発車をしたとして、机を叩きながら「コンセンサスの手順が無茶苦茶だ」と[[関西電力]][[大飯発電所|大飯原発]]3号機の再稼働を痛烈に批判。同年7月20日には、[[総理大臣官邸|首相官邸]]前での大飯原発再稼働に反対する[[デモ活動]]に参加し、[[福島瑞穂]]や[[湯川れい子]]と共に、再稼働を批判するスピーチを行っている{{要出典|date=2015-10-29 }}。</ref>ら[[保守]]系論者からも脱原発を求める声が上がっている。[[小林よしのり]]は、「[[SAPIO]]」2011年12月7日号より「脱原発論」の連載を開始した。文芸評論家の[[すが秀実]]は、いわゆる「[[ネット右翼]]」の相当部分は反原発派であると主張している{{refnest|group="注釈"|その根底には、エリートが支配している大ジャーナリズムが相対的に原発推進派であることへの反発があるという{{Sfn|すが秀実|2012|p=328}}。}}。一方で保守言論層の相当部分は核エネルギー政策について全廃慎重派ないしは継続推進派である<ref>{{Cite news |author=樋口大二 |url=http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201107220227.html |title=脱原発めぐり揺れる保守論壇 |newspaper=朝日新聞 |date=2011-07-22 |accessdate=2013-02-04 }}</ref>。
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==== 政府試算 ====
2012年4月19日、[[原子力委員会]]小委員会は、2020年までに原発ゼロにして、それまでに出た使用済み核燃料の全量を地中廃棄処分するなら、費用総額が7.1兆円に収まるという試算を公表した<ref>『東京新聞』 電子版、2012年4月20日。{{Full|date=2015-10-29}} {{リンク切れ|date=2015-04-12 }}</ref>
{{refnest|group="注釈"|2012年5月9日の原子力委員会での資料における、原子力比率III(0%)のケースでは、8.1-8.7兆円と試算された<ref>{{Cite web|url=http://www.aec.go.jp/jicst/NC/tyoki/sakutei/siryo/sakutei18/siryo1-4.pdf |title=各原子力比率におけるステップ3の評価 原子力比率III(0%)のケース |work=新大綱策定会議(第18回) 資料第1-4号 |author=原子力政策担当室 |publisher=内閣府原子力委員会 |pages=pp.87- |format=PDF |quote=p.104:''単位:兆円 シナリオ3(全量直接処分)8.1~8.7''|date=2012-05-09 |accessdate=2015-04-12 }}</ref>。また、原子力比率I(35%)のケースでは、使用済み核燃料をすべて再処理すると、2030年までに18.4兆円かかる。比べて、再処理せずにすべての使用済み核燃料を地中廃棄処分する場合は約4兆円が節約できると試算された<ref>{{Cite web|url=http://www.aec.go.jp/jicst/NC/tyoki/sakutei/siryo/sakutei18/siryo1-4.pdf |title=各原子力比率におけるステップ3の評価 原子力比率I(35%)のケース |work=新大綱策定会議(第18回) 資料第1-4号 |author=原子力政策担当室 |publisher=原子力委員会 |pages=pp. 1-34 |format=PDF |quote=p. 18:''単位:兆円 シナリオ1(全量再処理)18.4 シナリオ3(全量直接処分)13.9~14.8''|date=2012-05-09 |accessdate=2015-04-12 }}</ref>。}}。2013年の日本のエネルギー自給率は6.15%でエネルギーを完全に海外に依存している
<ref>https://www.jepic.or.jp/data/graph01.html</ref>
同年、内閣[[国家戦略室]]は「エネルギー・環境会議」を設置し、エネルギー政策について検討を行った<ref>{{Cite report|title=議事次第 エネルギー・環境会議(第13回) : エネルギー・環境戦略策定に当たっての検討事項について |author=経済産業大臣 |publisher=国家戦略室 エネルギー・環境会議 |url=http://www.npu.go.jp/policy/policy09/archive01_13.html |date=2012-09-04 }}{{リンク切れ|date=October 2017}}</ref>。会議資料では、原発ゼロシナリオを実施する場合の課題と克服策について以下が提示されている。
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|}
== 世界の原発とエネルギー自給 ==
原子力撤廃に関する議論は、1986年4月26日に発生した[[チェルノブイリ原子力発電所事故]]の後、活発化した。[[スウェーデン]]([[1980年]])、[[イタリア]]([[1987年]])、[[ベルギー]]([[1999年]])、そして[[ドイツ]]([[2000年]])などでは、政策化された。1990年から2000年代前半の[[原油価格]]の下落、[[火力発電]]の効率向上により原子力の経済性が低下したため原子力撤廃論は発言力を得た、とされている。
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|archivedate = 2011年4月3日
|deadlinkdate = 2017年9月
}} </ref>。一方、世論は脱原発に傾きつつある。日本の福島の原発事故後に全ロシア世論研究センター(WCIOM)の社会学者が実施した世論調査によると、脱原発への動きを支持するロシア人の割合は57%に上る一方、反対と答えたのはわずか20%だった。脱原発支持の主な理由は、「生命の安全と環境改善」(68%)、「代替エネルギーがより安全で経済的」(24%)などとなっている{{Sfn|宮崎吉郎|2011|pp=154-155}}。
==== 中国 ====
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}} </ref>
計画を上回るスピードにて原発の建設が進んでいることが指摘されているため、国内の人口増の影響もあって中国の原発建設計画がさらに拡大することは間違いない情勢となっている。また、特に、中国における原子力発電所の事故は、偏西風にのって日本列島に到達するため、日本国民の健康上の被害などについてが懸念される<ref>{{Cite web |author=窪田秀雄 |url=http://www.spc.jst.go.jp/hottopics/0905nuclear_e_dev/r0905_kubota.html |title=中国原子力の概況 |work=SciencePortal China |publisher=科学技術振興機構中国総合研究交流センター |date=2009-04-03 |accessdate=2012-12-15 }}</ref>。
これに対しては、日本が安全技術に優れる日本の原発を輸出することが懸念に対する具体的対応策であるとする意見もある<ref>「日本企業 復活の道は?」 『読売新聞』 2013年1月5日。</ref>。中国では2013年にはパキスタンで複数の原子炉を建設中で、同時に世界の原子力発電所市場でのシェアを拡大することを目標としている<ref>http://www.recordchina.co.jp/b75932-s0-c20.html</ref>。 2016年末時点で35基が稼働し、20基が建設中である。習近平主席は2030年までに「原発強国」を実現することを表明し、計画によると中国は2016年1月時点で約2800万kwだった原発の総発電容量を2020年までに5800万kwにする予定である<ref name=":0">[https://mainichi.jp/articles/20170111/k00/00m/030/093000c 原発:アジアで急増 台湾と逆行、日本・韓国、輸出推進] 毎日新聞</ref>。中国政府は90%ほどの[[エネルギー自給率]]を維持と石炭依存から脱却を推進して、石炭発電の占める割合を減らす内訳に変えることを目指してきた。中国は2010年時点で運転中11基、建設中26基、世界全体の建設案件の66基の半分に迫る原子力発電所を持っている。更に計画中のプラントも10基あり、世界最大の原発建設国で世界での原発輸出でも台頭してきている。2017年10月時点で稼働中38基、建設中19基の原発があり、中国政府は2030年までに国内の電力需要のために国内で100基を超える原発の稼働を計画している。原発の輸出も従来の原発輸出国の停滞している隙に国レベルが積極的に支援して受注に成功して市場で圧倒している<ref>http://j.people.com.cn/94476/6772689.html</ref><ref>https://www.nikkei.com/article/DGXNASDD2604J_W0A420C1000000/</ref><ref>http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20171002/Recordchina_20171002023.html</ref>。
==== 韓国 ====
{{Main|韓国の原子力発電所}}
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==== フランス ====
フランスはOPEC([[石油輸出国機構]])諸国の中東に1972年当時は石油に殆ど依存していたため、原油価格を4倍にされた経済的に大打撃を受けた。以降1987年までの15年間で国内に56の原子炉を建設し、電力需要を賄うだけでなくドイツやスイスなどヨーロッパの他の国に電力を輸出するまでになった。全発電量の4分の3を占める原子力大国原発大国である[[フランス]]は、原発推進を国策としてきたが、[[福島第一原子力発電所事故]]直後の世論は
==== ドイツ ====
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