「河埜和正」の版間の差分

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|守備位置 = [[内野手]]([[遊撃手]])
|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1969}}
|ドラフト順位 = ドラフト56
|初出場 = 1971年9月24日
|最終出場 = 1986年10月3日
[[愛媛県立八幡浜工業高等学校|八幡浜工業高校]]では2年生の時、{{by|1968年}}秋季四国大会県予選準決勝に進むが、[[愛媛県立八幡浜高等学校|八幡浜高]]の[[藤沢公也]]に完封を喫する。翌{{by|1969年}}夏の県予選でも敗退、甲子園には出場できなかった。
 
同年の[[1969年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト]]56位で巨人に指名され入団。二軍暮らしが長かったが、{{by|1974年}}に[[黒江透修]]に代り[[遊撃手]]のレギュラーを獲得する。{{by|1977年}}には初めて規定打席に到達(20位、打率.294)し、リーグ2連覇に貢献。{{by|1981年}}の[[日本ハムファイターズ|日本ハム]]との[[1981年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では、チャンスメーカーとして全試合に先発出場、21打数9安打3打点を記録し日本一の大きな原動力となる。その後も{{by|1984年}}まで定位置を守るが、{{by|1985年}}には[[岡崎郁]]にポジションを譲り、{{by|1986年}}限りで引退。[[広岡達朗]]、黒江を上回る遊撃手球団最多出場を記録している。
 
{{by|1985年}}[[4月16日]]の対[[阪神タイガース|阪神]]戦([[阪神甲子園球場|甲子園]])の4回裏の守備で、[[佐野仙好]]の放ったなんでもないショートフライをグラブに当てて落球。阪神はこの失策を契機にこの回一挙7得点を挙げて逆転勝利、翌日の[[バックスクリーン3連発]]と合わせてチームが勢いづき、21年ぶりの優勝に繋がった。その後も、普段からは考えられないような凡ミスを出し、落球の精神的後遺症といわれるほど失策が続き、遂に二軍降格も経験した<ref>{{Cite web
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