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[[大正]]4年([[1915年]])に[[農商務省 (日本)|農商務省]]に入り、工務局工務課長、同会計課長、産業合理局部長などを歴任する。父の死去に伴い、大正6年([[1917年]])8月30日、侯爵を襲爵し貴族院侯爵議員に就任した<ref>『官報』第1526号、大正6年9月1日。</ref>([[1945年]]12月27日辞任<ref>『官報』第5694号、昭和21年1月9日。</ref>)。
 
[[商工省]]では臨時産業合理局第一部長兼第二部長を務め、[[吉野信次]]と[[岸信介]]が起案した[[重要産業統制法]]を岸とともに実施した<ref>[[岸信介]]・[[矢吹一夫]]・[[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]著、『岸信介の回想』 文藝春秋 1981年 p.13</ref>。[[昭和]]5年([[1930年]])、友人であった[[近衛文麿]]の抜擢により、商工省を辞し、[[内大臣府]]秘書官長に就任。
 
昭和11年([[1936年]])2月26日から2月29日にかけて日本の陸軍[[皇道派]]が起こした[[二・二六事件]]では[[杉山元]]や[[東條英機]]をはじめとする陸軍[[統制派]]と連携して事件の処理を行い、その功績を[[昭和天皇]]に認められ、中央政治に関与するようになる。