「有島武郎」の版間の差分
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| nationality = {{JPN}}
| education =
| alma_mater = [[札幌農学校]]<br />(現・[[北海道大学]][[農学部]]
| genre = [[小説]]<br />[[評論]]
| subject = キリスト教人道主義
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'''有島 武郎'''(ありしま たけお、[[1878年]]([[明治]]11年)[[3月4日]] - [[1923年]]([[大正]]12年)[[6月9日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。
[[学習院中等科]]卒業後、[[農学者]]を志して[[
代表作に『[[カインの末裔]]』『[[或る女]]』や、[[評論]]『惜みなく愛は奪ふ』がある。
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東京小石川(現・[[文京区]])に旧[[薩摩藩]][[郷士]]で[[大蔵省|大蔵]]官僚・実業家の[[有島武]]の長男として生まれる。母は幸子。祖父・[[有島宇兵衛|宇兵衛]]も同じく郷士であった。武郎4歳の時、父の[[横浜税関]]長就任を機に一家で[[横浜市|横浜]]に移る。父の教育方針により米国人家庭で生活。その後、横浜英和学校(現[[横浜英和学院]])に通う。このころの体験が後に童話『一房の葡萄』を生むことになる。
10歳で[[学習院]]予備科に入学し、寄宿生として過ごし、19歳で学習院中等全科を卒業する。その後、[[
帰国後はふたたび予備見習士官や[[東北帝国大学農科大学]]の英語講師として過ごしていたが、弟の[[有島生馬|生馬]]を通じて[[志賀直哉]]、[[武者小路実篤]]らと出会い、[[同人誌]]『[[白樺 (雑誌)|白樺]]』に参加する。『かんかん虫』『お末の死』などを発表し、[[白樺派]]の中心人物の一人として小説や評論で活躍した。[[1916年]](大正5年)に妻・安子([[肺結核]]により[[平塚]]の杏雲堂で、27歳で没)と父を亡くすと、本格的に作家生活に入り、『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『迷路』を書き、[[1919年]](大正8年)には『[[或る女]]』を発表した。
しかし創作力に衰えが見え始め、『星座』を途中で筆を絶つ。[[1922年]](大正11年)、『宣言一つ』を発表し、[[北海道]][[狩太村]]の有島農場を開放する。[[1923年]](大正12年)、『[[婦人公論]]』記者で人妻であった[[波多野秋子]]と知り合い、恋愛感情を抱く(有島は妻・安子と死別後は再婚せず独身を通した)。しかし、秋子の夫[[波多野春房|春房]]に知られるところとなり、脅迫を受けて苦しむことになる。そして[[6月9日]]、2人は[[長野県]][[軽井沢]]の別荘(浄月荘)で[[縊死]]を遂げた。[[7月7日]]に別荘の管理人により発見されるが、[[梅雨]]の時期に1ヶ月遺体が発見されなかったため、相当に腐乱が進んでおり、遺書の存在で本人と確認されたという。複数残されていた遺書の一つには、「愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかつた」と残されていた。[[2009年]]([[平成]]21年)7月に、死の約半年前から有島が秋子と取り交わした書簡各3通が[[札幌市]]にある「[[北海道立文学館]]」で一般公開された。
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