「楊応龍の乱」の版間の差分

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明朝はこれらの非漢族の土地を統治するため、土着勢力の部族統率者や漢族系在地勢力を世襲的に[[土司]]・土官に任命して間接統治を行った。楊氏も[[唐|唐代]]より[[宋 (王朝)|宋]]・[[元 (王朝)|元]]・明の各王朝で代々播州を根拠地としており、漢族・苗族の統治にあたった土司であった。在地権力者の一人として[[楊応龍]]は[[1572年]]([[隆慶]]6年)に宣慰使を継承し、苗族鎮撫を主な任務として明朝に仕えた。播州宣慰使は黄平・草塘の2安撫司と真州・播州・白泥・余慶・重安・容山の6長官司を管轄し楊応龍の当地における権限は相当な大きさであった。また、土司は中央政府より、名目的な朝貢と定額の納税、そして常時の派兵が義務付けられていた。明朝の中央軍制が荒廃していくにつれて地方土着の土司の戦力比重が大きくなっていた<ref name="okano1971"/>。
 
楊応龍は採木の提出等で有能な土司と評価されていたが、自己権力の増大を図りに五司七姓(黄平・草塘・白泥・余慶・重安の五司と田・張・袁・・譚・羅・呉の七姓)と称される他在地勢力から反発された。五司七姓は楊応龍は反逆したと上奏、[[1590年]]([[万暦]]18年)に貴州[[巡撫]]都御史の[[英夢熊]]は楊応龍の取調べを主張したが、四川巡按の[[李化龍]]は生苗からの防御のために播州土兵の戦力が必要であることから取調べには反対した<ref name="okano1971"/>。
 
[[1591年]](万暦19年)に英夢熊は権力分離を狙って播州五司を[[重慶]]に移管することを提案したが、李化龍は自らの辞任と引き換えに移管案を防いでいる。中央での管轄権をめぐる政争が行われる中、楊応龍は妾の田氏に教唆され正妻の張氏とその母親を殺害、それに反発した遺族より再度反乱の嫌疑ありと訴えられた<ref name="okano1971"/>。
[[1594年]](万暦22年)10月、ついに明朝は懐柔政策からの転換を図り、南京侍郎の[[ケイカイ|&#x90a2;&#x73a0;]]により鎮圧に乗り出した。&#x90a2;&#x73a0;は楊応龍に投降を促したが、楊応龍の失脚を狙う五司七姓により途中で阻まれた。結局、楊応龍は黄元等12人の身代わりを処刑し、4万金を納め、採木による資材提出を行い、次子の楊可棟を人質に出し、宣慰使は嫡子の楊朝棟に譲ることで再度死刑を免れた<ref name="okano1971"/>。
 
[[1596年]](万暦24年)7月、人質となっていた可棟が死去すると楊応龍は態度を硬化、贖罪金の支払いを拒否した。一方で、敵対勢力へ略奪を行い、原住民の苗族を厚遇して独立色を強めていった。この年、楊応龍は余慶・草塘にて略奪を行い、興隆・偏鎮・都キン等の衛所を攻め、五司の内の黄平・重安の一族を誅殺した<ref name="okano1971"/>。
 
[[1597年]](万暦25年)、更に楊応龍は江津・南川・合江を侵略して七姓の内の袁子升を処刑し、貴州の洪頭・高坪・新村などを侵略し、湖広の四十八屯を占領した。ここでも仇敵の宋世臣・羅承恩等を探し出して処刑している。貴州巡按の応朝卿は五司への復讐を実施しているだけで明朝に背いているわけではないという楊応龍の名分を信じることはできないと述べている<ref name="okano1971"/>。
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