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[[ファイル:Kuniyoshi Utagawa, Heroes of china and Japan 3.jpg|thumb|320px|『和漢英勇画伝』より「義経 弁慶と五条の橋で戦ふ」([[歌川国芳]]画)<br />[[五条大橋]]での戦いを描いた[[江戸時代]]の[[浮世絵]]]]
'''武蔵坊弁慶'''(むさしぼう べんけい、'''武藏坊辨慶'''<ref>他に「瓣」「辧」「辯」などの異字体で表記する文献も在る。</ref>慶'''、? - [[文治]]5年[[閏]][[4月30日 (旧暦)|4月30日]]([[1189年]][[6月15日]])?)は、[[平安時代]]末期の[[僧侶|僧衆]]([[僧兵]])。[[源義経]]の[[郎党]]。
 
『[[義経記]]』では熊野別当の子で、[[紀伊国]]出身だと言われるが詳細は不明。元は[[比叡山]]の僧で武術を好み、[[五条大橋|五条の大橋]]で義経と出会って以来、郎党として彼に最後まで仕えたとされる。[[講談]]などでは、義経に仕える怪力無双の荒法師として名高く、ほか創作の世界でも義経と並んで主役格の人気があり、怪力の者や豪傑の代名詞としても広く用いられている。
 
=== 牛若との出会い ===
鬼若は[[比叡山]]に入れられるが勉学をせず、乱暴が過ぎて追い出されてしまう。鬼若は自ら剃髪して'''武蔵坊弁慶'''と名乗る。その後、[[四国]]から[[播磨国]]へ行くが、そこでも乱暴狼藉を繰り返して、[[播磨国|播磨]]の[[書写山]][[圓教寺]]の堂塔を炎上させてしまう。
 
やがて、弁慶は京で千本の[[太刀]]を奪おうと悲願を立てる。弁慶は道行く人を襲い、通りかかった帯刀の武者と決闘して999本まで集めたが、あと一本というところで、[[五条大橋]]で笛を吹きつつ通りすがる義経と出会う。弁慶は義経が腰に佩びた見事な太刀に目を止め、太刀をかけて挑みかかるが、[[欄干]]を飛び交う身軽な義経にかなわず、返り討ちに遭った。弁慶は降参してそれ以来義経の家来となった。この決闘は後世の創作で当時五条大橋はまだなく、決闘の場所も『[[義経記]]』では五条の大橋ではなく[[堀川小路]]から[[清水寺|清水観音]]での出来事とされている。また現在の[[松原通 (京都市)|松原通]]が当時の「五条通り」であり、また旧五条通西洞院に五条天神社が存在し、そこに架かる橋であったとも言われている。決闘の場所を五条大橋とするのは、明治の伽噺作家、[[巌谷小波]]の書いた『日本昔噺』によるもので、『[[尋常小学唱歌]]』の「牛若丸」もこれにしたがっている<ref>{{Cite web |url=http://www.d1.dion.ne.jp/~ueda_nob/wildcat/kyoto/ushiwaka.html |title=唱歌「牛若丸」のふしぎ |work=注文の多い山猫軒 |publisher= |accessdate=2013-05-14 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20081002032729/http://www.d1.dion.ne.jp/~ueda_nob/wildcat/kyoto/ushiwaka.html |archivedate=2008-10-02}}</ref>。
: 義経と共に[[蝦夷地]](現在の北海道)に逃げ延び、江差にいたという伝説が伝わっており、江差町の[[鴎島 (江差町)|鴎島]]にある岩の2つの窪みが、弁慶が付けた「弁慶の足跡」と伝えられている<ref name="kamomejima-yoshitsune-2">[http://www.hokkaido-esashi.jp/modules/sightseeing/content0006.html 江差町公式ホームページ「弁慶の力石」]2017年9月4日閲覧</ref>。
; 弁慶の力石([[北海道]][[江差町]])
: 上記の「弁慶の足跡」と共に「義経伝説」として、現在の江差町・鴎島の鴎島灯台下部あたりに、同じ鴎島にある[[鴎島 (江差町)#島の下部|瓶子岩]]とほぼ同じ10mほどの大きさの巨石がかつてはあり、弁慶が[[筋力トレーニング|鍛錬]]に使っていたと言われていたが、[[昭和]]9年([[1934年]])の[[函館大火]]の日に発生した高波でさらわれたと伝えられている<ref name="kamomejima-yoshitsune-2"/>。
<gallery>
武蔵坊弁慶の墓.JPG|弁慶の墓
== 弁慶に因むことば ==
[[ファイル:Hirakata-kikuningyo3198.JPG|thumb|弁慶の立往生を表した[[菊人形]]]]
弁慶は古くから豪傑や怪力の代名詞として用いられており、それに因んだ様々なことばがある。
; 弁慶の立往生
: 義経が[[衣川館|衣川の館]]を攻められた際、弁慶は並み居る敵兵を次々倒すが、ついには無数の矢を受けて薙刀を杖にして仁王立ちのまま息絶えたと伝えられている。ここから命を投げ出して主君を護っていた忠義の臣を表す。単に「立往生」と記した場合、進退窮まることの喩えに用いられる。なお、この立往生については[[医学]]的見地から様々な議論がなされている。[[法医学]]の立場からは、著しい肉体疲労や即死時のショックからくる即時性[[死後硬直]]ではないかと考察されているが、あり得ないとする意見もあり、真偽は定かではない。
: 弁慶ほどの豪傑でもここを打てば涙を流すほど痛いとされる急所のこと。最もよく知られているのが[[脚#人の脚|脛]](膝頭の下から足首の上まで)で、[[皮膚]]のすぐ下、[[骨]]([[脛骨]])のすぐ上を[[神経]]が通っている。他に[[アキレス腱]]や中指の第一関節から先の部分もこのように呼ばれる。
; 弁慶の七つ道具
: 弁慶が持っていたと伝えられる七種の武器([[薙刀]]<ref group="注釈">弁慶の薙刀の銘は「[[岩融]](いわとおし)」と伝わっており、作者は不明だが[[三条宗近]]とする説もある。</ref>、鉄の[[熊手]]、[[槌|大槌]]、[[鋸|大鋸]]、[[刺又]]、[[突棒]]、[[袖搦]])から転じて、7個で一式のものを[[七つ道具]]と呼ぶようになり、「選挙の七つ道具-」、「探偵の七つ道具-」のような使われ方をされる。
; 内弁慶、外地蔵
:「陰弁慶」「炬燵弁慶」とも。家の中では強気になって威張り散らすが、外では意気地が無くおとなしい人間のこと。転じて、特定の場面においてのみ威勢を張る様を以って「-弁慶」等と組み合わせて用いる。
; 弁慶ぎなた式
:「[[ぎなた読み]]」とも。「弁慶が薙刀を持って刺し殺した」という文を「弁慶がな、ぎなたを持ってさ、し殺した」と区切りを間違えて読むこと。句読点の付け方(または息継ぎ)を変えると文章の意味も変わるということを示す例。「ここではきものをぬいでください」なども同様。
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