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'''アンドレアス・ニコラウス・"ニキ"・ラウダ'''(''Andreas Nikolaus "Niki" Lauda'' 、[[1949年]][[2月22日]] - )は、[[フォーミュラ1|F1]]レーシングドライバー。[[オーストリア]]の[[ウィーン]]出身。[[1975年]]、[[1977年]]、[[1984年]]のF1チャンピオン。「スーパーラット」、「不死鳥」の異名を持ち、その走りはミスが極めて少ないことから'''コンピューター'''と云われた。
 
== プロフィール ==
=== デビュー前 ===
生家はいくつもの製紙工場を所有する資産家階級で、長男として生まれた。[[1966年]]に[[ニュルブルクリンク]]で開催された[[ドイツグランプリ]]を観戦したのがきっかけで、レースへの道を進む決意をする。しかし、跡取りとして歩んで欲しかった家族はレース活動に協力的ではなかった。初レースは家族に内緒で参戦。いきなり2位に入り新聞のスポーツ欄に掲載されたため、その記事を見た父親激怒してレース禁止を言い渡した。しかしに出場したレースでは優勝してしまったことから『レーサーを辞めなければ、ラウダ家の持ち物を一切置いて、家から出て行け』と言われるさらに父の怒りが増してしまった。それでもレースを続けたので暫く[[勘当]]されることとなった。後ろ盾のないまま自らスポンサー獲得の交渉も行い、金銭的苦労を重ねながらステップアップしていった。
 
=== マーチ時代 ===
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:F1での活動継続のピンチに立ったラウダであったが[[マールボロ (たばこ)|マールボロ]][[ブリティッシュ・レーシング・モータース|BRM]]に売り込みをし、BRMへ持参金を持ち込む条件で1973年シーズンのF1シートを確保した。同年、資金稼ぎのために参戦していた[[BMW]]アルピナ・[[ツーリングカー]]での活動も、引き続き延長することとなった。
;[[1973年]]
:BRMではマシンの信頼性に問題があり、入賞は[[ベルギーグランプリ]]での5位のみだったが、各グランプリでリタイアするまでは速さを見せていた。特に[[モナコグランプリ]]で[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]をリードする走りをしたことで[[エンツォ・フェラーリ]]がラウダに注目。また、BRMで1レースだけチームメイトとして一緒に走り、既にフェラーリへの移籍を果たしていた[[クレイ・レガツォーニ]]の推薦もあった。夏には、翌1974年からフェラーリの監督となる[[ルカ・ディ・モンテゼーモロ]]を代理として、フェラーリが正式にラウダをフェラーリへ勧誘。BRMとの契約をクリアーし移籍が決まった。そして、BMWアルピナ・ツーリングカー参戦もこの年で終了となった。
 
===フェラーリ時代===
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[[ファイル:Niki Lauda 11.jpg|thumb|right|240px|1975年のラウダ]]
;[[1974年]]
:[[南アフリカグランプリ]]で自身初のポールポジションを獲得。続く[[スペイングランプリ]]ではポール・トゥ・ウィンで初勝利を達成し、シーズン中盤にはドライバーズポイント首位に立った。[[イギリスグランプリ]]ではレース終了間際にピットインした際、観客の乱入によりコースに復帰できず5位となる珍事が起きた。この年は2勝し、最多の9ポールポジションを獲得したが、終盤戦の5連続リタイアによりタイトルを逃した([[ドイツグランプリ]]や[[カナダグランプリ]]でミスもしていた)。しかしこのシーズンは、徹底したテスト・ドライブこそが、レースで高性能を引き出す鍵であることをラウダは理解した。[[アンダーステア]]を抱えていた[[フェラーリ・312B|312B3]]を進化させる為、フェラーリの工場に隣接する[[フィオラノサーキット]]を納得するまで走り込んだ。
;[[1975年]]
:テストを積極的に行い、[[フェラーリ・312T|312T]]を開発。第3戦[[南アフリカグランプリ]]より投入された312Tは信頼性も高かった。ラウダは5勝9ポールポジションをあげ、速さと安定した走りでポイントを重ね、[[F1世界チャンピオンの一覧|ワールドチャンピオン]]となった。フェラーリの[[F1コンストラクターズチャンピオンの一覧|コンストラクターズタイトル]]獲得にも貢献した。監督のモンテゼーモロ、デザイナーの[[マウロ・フォルギエリ]]との関係も良好だった。しかし、そのモンテゼーモロは同シーズンで監督を退き、[[フィアット]]に戻った。後任は[[ランチア]]のレース部門を管理していた[[ダニエル・オーデット]]が就任した。
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:しかし、[[ニュルブルクリンク]]で開催された第10戦[[1976年ドイツグランプリ|ドイツグランプリ]]で悲劇に襲われる。タイヤ交換で後退してから順位を挽回中に「ベルクヴェルク」の一つ手前にある左に廻る高速コーナーで突然コントロールを失い、コース右側のキャッチフェンスを突き破り、露出していた岩に衝突、その衝撃で[[ヘルメット]]が脱げてしまった。クラッシュし発火したマシンはコース中央まで跳ね返され停止、これに[[ブレット・ランガー]]の[[サーティース・TS19]]が衝突し、アメリカ人ドライバーの[[ガイ・エドワーズ]]、後続で停止した[[ハラルド・アートル]]、[[アルトゥーロ・メルツァリオ]]、ランガー、コースマーシャルの5人が捨て身の行動でラウダのマシンを消火・救出活動を行った。事故原因については、縁石にタイヤを乗せた弾みのスピン説やリア[[サスペンション]]の故障説、ラウダ自身はタイヤトラブルだと語っているが、その後もコントロールを失った真の原因は確定できず謎となっている。
:ラウダはヘルメットが脱げてしまった影響で頭部に大火傷を負い、[[FRP]]製のボディーワークが燃えて発生した有毒ガスを吸い込んだため、肺に深刻なダメージを受けた。全身のおよそ70%の血液を入れ替え、数日間生死の境をさ迷ったが、[[牧師]]が病室に訪れた途端にラウダは驚異的なペースで回復。事故発生から6週間後の第13戦[[イタリアグランプリ]]で奇跡のレース復帰を果たし、4位入賞した。大腿部の皮膚を移植した顔の右半分には火傷の跡が生々しく残っている状態だったが、ラウダは周囲の好奇の目を気にする事も無かった。一方、[[マクラーレン]]の[[ジェームス・ハント]]が第14戦[[カナダグランプリ]]、第15戦[[アメリカグランプリ#アメリカ東GP|アメリカ東グランプリ]]と連勝し、ラウダはそれぞれ8位、3位だったためポイント差を詰められた。
:タイトル争いは最終戦の[[F1世界選手権イン・ジャパン]]に持ち込まれた。この時点でポイントリーダーはラウダで、わずか3ポイント差の2位にハント。[[富士スピードウェイ]]での決勝は、コースに川ができるほどの豪雨に見舞われた。レース中止案もある中で強行された決勝を、ラウダは「リスクが大きすぎる」として、わずか2周をスロー走行したのみでピット・インし自らリタイアした。一方のハントは決勝で3位に入賞し4ポイントを獲得、1ポイントラウダを上まわり逆転での1976年F1ワールドチャンピオンとなった。
:独断でリタイアし自ら王座を手放したラウダをエンツォ・フェラーリは公には庇ったが、その後の関係はギクシャクしていく。また、ラウダが負傷欠場していた第12戦オーストリアグランプリをボイコット期間ラウダがレースに復帰する見込みがないと判断していたエンツォはチーム監督のオーデットに頼み込み、イタリアグランプリ前に代役として[[カルロス・ロイテマン]]を引き入れたことが、結果的に(ラウダが早期復帰を果たしたため)チームメイトであるレガツォーニの解雇につながり、これをきっかけにラウダとフェラーリチーム首脳の間に亀裂が生じた。
;[[1977年]]
:シーズン前のテスト・プログラムからラウダは除外されていたが、第3戦南アフリカグランプリでシーズン初勝利を上げ、チームの体制を再び自分に取り戻す。また第11戦ドイツグランプリ、第13戦オランダグランプリをそれぞれ勝利し、シーズン3勝、2位6回と安定した速さを見せ第15戦[[アメリカグランプリ|アメリカ東グランプリ]]にて2度目の[[F1世界チャンピオンの一覧|ワールドチャンピオン]]を確定した。
:しかし、前年からの経緯によりフェラーリからの離脱を決意していたラウダは、[[ゴードン・マレー]]のデザインした、サーフェイス・クーリング(表面冷却)と呼ばれる[[ブラバム・BT46]]に惹かれ、ブラバムの代表である[[バーニー・エクレストン]]とサインを交わし翌年からの移籍が決定。すると、ラウダと共にブラバムへ移籍したいと希望したメカニックがフェラーリから即時解雇され、ラウダはこれに激怒。アメリカ東グランプリ後に2戦を残してフェラーリを去った。この際に引き止めたいエンツォ・フェラーリと去りたいラウダとの間では、白紙の小切手を前にした生々しく、激しい口論も発生している(後述)
 
=== ブラバム時代 ===
[[ファイル:Lauda at 1978 Dutch Grand Prix (2).jpg|thumb|right|180px|1978年オランダGP]]
;[[1978年]]
:完走したレースは2勝、2位3回、3位2回と安定して速かっものの、BT46はラウダの見込みに反して信頼性が低く、全16戦中6戦をマシントラブルで、3戦をアクシデントでリタイアし、ランキング4位で終わった。[[スウェーデングランプリ]]では[[ファン・カー]]と呼ばれた[[ブラバム・BT46|BT46B]]に乗り優勝したが、リアエンドに取り付けられた冷却用ファンが禁止されている「可動する空力デバイス」に当たるとのクレームを受け、次レースから同システムの使用が禁止された。また、この年に[[ラウダ航空]]を設立し実業家としてのキャリアが本格スタート。[[チャーター便]]の航空市場に参入した。
;[[1979年]]
:ブラバムはこの年を[[アルファロメオ]]製V12エンジンを搭載する[[ブラバム・BT48|BT48]]で戦っていたが、パワーはあるものの信頼性が低く結果が伴わなかった。また、同年にはアルファロメオのワークスチームがF1に復活しており、エクレストン代表はブラバムがアルファロメオからセカンドチーム扱いされることを避けたい事情から、搭載エンジンをV型8気筒の[[フォード・コスワース・DFVエンジン]]へ変更することを決定。シーズン終盤の第14戦[[カナダグランプリ]]にDFVエンジン搭載の新車[[ブラバム・BT49|BT49]]を投入した。ラウダはこの新車をカナダGP初日のフリープラクティスで走らせた後、予選開始を前に突然レーサーを引退すると発表する。「同じ場所([[サーキット]])を何回も何回も走りまわらなくてもよくなったんだ。一生の終わらないうちに、やっておくべきことが他にあると思うんだ」と理由を語ったが、欧州F2参戦時から高回転のV12エンジン搭載マシンに長年乗り続けてきたラウダはV8であるDFVエンジンの出力の無さに幻滅し、突然引退を決めてしまったという説もある。ラウダ自身は『ピットでバーニー(・エクレストン)と話したのが直接の引き金になった』と語っている<ref name="lauda01">『F1 RACING』2011年1月情報号より。</ref>。引退後は、実業家としてラウダ航空の経営に専念することとなった。
 
=== マクラーレン時代 ===
==== 現役復帰 ====
;[[1981年]]
:ラウダがレース界から去り2年経過していた同年シーズン終了の少し前、[[マクラーレン]]の[[ロン・デニス]]と[[マールボロ (たばこ)|マールボロ]]の[[ジョン・ホーガン]]から、[[ドニントンパーク]]での[[マクラーレン・MP4/1|MP4/1]]のテストに招かれた。テストランを経て11月にマクラーレンからラウダの[[フォーミュラ1|F1]]への参戦が発表され、2年半ぶりに(翌1982年から)現役復帰することになった。「2年間、モーターレーシングに興味を示すことはなかった。でも[[オーストリアグランプリ]](1981年)の時にふと気づいたら、(復帰を)考え込んでいた」とラウダは語っている。しかし、当時の航空業界は世界的な金融不況の直撃を受け、ラウダ航空の経営も順調ではなかったからという説もある。ラウダ航空はその頃、国営の[[オーストリア航空]]と路線認可の紛争も抱えていた。ラウダの[[ヘルメット]]はそれまで赤一色であったが、この復帰以後はラウダ航空の旅客機の尾翼と同様の「(LAUDAの)'''L'''」をモチーフとしたデザインが施されていた。デニスはラウダとの契約時に、実業家とF1ドライバーの兼務となるリスク軽減の一策として「もしラウダが明白に(レーシングドライバーとしての)任務を果たしていない場合、開幕から4レースで降りてもらう」という一文を入れたいと要求し、ラウダは快諾している。
;[[1982年]]
:シーズン前には[[ラジアルタイヤ]]への違和感もあったが、以前と同様にテストで走りこんで感覚を取り戻していった。また、ニュルブルクリンクでの事故の後遺症を克服するためにサポートを受けたトレーナー(ヴィリー・ダンクル)のメニューで体力作りを行い、開幕に備えた。第3戦[[アメリカグランプリ|アメリカ西グランプリ]]で復帰後初勝利し、第9戦[[イギリスグランプリ]]を含む2勝を挙げ、ランキング5位だった。
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;[[1984年]]
:ラウダは、前年[[ルノー]]でランキング2位を獲得しこの年マクラーレンに移籍してきたチームメイトの[[アラン・プロスト]]と年間を通じてチャンピオン争いをすることになる。ラウダ5勝、プロスト7勝で、予選もプロストの15勝1敗と純粋な速さではプロストに分があったものの、決勝レースで最後まで上位で生き残り高ポイントを確実に重ねるのはラウダの方だった。この年の5勝の中には、ラウダにとっては最初で最後となる地元[[オーストリアグランプリ]]での優勝も含まれている。決勝でトップ走行中のラウダに変速ギアのひとつが砕けるトラブルが起きていたが、ラウダのテクニックによりラップタイムを大きく落とさず、トラブルが起きているそぶりも見せなかった。それゆえ2位を走っていた[[ブラバム]]の[[ネルソン・ピケ]]は、縮まらないラウダとのタイム差を考え、2位のポジションキープに移行したことで優勝を勝ち取ったレースであった。
:最終戦[[ポルトガルグランプリ]]までラウダとプロストとのチャンピオン争いはもつれ込んだが、2位入賞したラウダがプロストにわずか0.5ポイントの差で、3度目の[[F1世界チャンピオンの一覧|ワールドチャンピオン]]に輝いた。この年間2位との差0.5ポイントはF1史上最小得点差でのワールドチャンピオンであり以後も更新されていない。全16戦中12勝を得たマクラーレンは[[F1コンストラクターズチャンピオンの一覧|コンストラクターズタイトル]]でも圧勝。ラウダは「今までチームメイトとこんなバトルをやったことはなかった。常に少しでも速く、少しでも上手に運転して、彼(プロスト)との競争で優位に立たなくてはならなかった」と喜びを語った。また、2年連続で最終戦でチャンピオン獲得を逃した後輩プロストへは「気にするな。来年は君がタイトルを取るよ」と声をかけている。この最終戦には1976年の事故以来サーキットへ一度も訪れなかったマルレーネ夫人も姿を見せ、表彰式ではラウダと抱擁して喜びを分かち合った。
:ラウダはマクラーレン在籍中の4年間、ポールポジションは1度も獲得出来なかったが、ポールポジションを1度も獲得せずにワールドチャンピオンとなったドライバーはこの1984年のラウダを最後に出ていない。このように決勝レースで強さを誇示するラウダのレーシングスタイルは、これまで一発の速さに拘る傾向が見られたプロストがそのドライビングスタイルを大きく変えるきっかけとなる。
;[[1985年]]
:ラウダのマシンにトラブルが多発し、チャンピオン争いから脱落。自身が前年に予言したとおりプロストが初のF1ワールドチャンピオンを獲得した。第10戦[[オーストリアグランプリ]]でこの年限りでのF1引退を発表。次戦[[1985年オランダグランプリ|オランダグランプリ]]でシーズン唯一となる優勝を果たし、これがラウダの最後のF1勝利となった。同グランプリは予選10番手スタートながら終盤プロストの追い上げを巧みにブロックし0秒232の微差で抑え込んで勝っている。最終戦の[[オーストラリアグランプリ]]では一時トップを走行したが、ブレーキトラブルでリタイアとなりレーサーとしてのキャリアを終えた。ラウダはその10日後には[[ボーイング737]]の[[機長]]養成[[トレーニング]]に姿を見せ、新しい人生を開始していた。
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[[Image:Airbus A321-231 - Niki - OE-LOS - LEMD.jpg|right|220px|thumb|ニキ航空のエアバスA321型機]]
[[ファイル:Andreas Nikolaus Lauda 2011.jpg|thumb|right|200px|地元ウィーンにて(2011年)]]
1990[[1991代前半]]に低迷するフェラーリのアドバイザーに就任。[[2002年]]には[[ボビー・レイホール]]の後任として[[ジャガー・レーシング|ジャガー]]F1チームのチームマネージャーとなったが、社内人事の混乱により短期解任された。
 
実業家としては、1978年に設立した[[ラウダ航空]]の経営に成功するが、[[1991年]]に機体の設計上の不具合が原因で、[[タイ王国|タイ]]にて自社の[[ボーイング767]]型機が機体故障で[[ラウダ航空004便墜落事故|墜落]]する大惨事が発生してしまう。その後持ち直すも経営難から経営権をオーストリアの[[フラッグ・キャリア]]である[[オーストリア航空]]に譲渡している。
 
その後は[[2003年]]に自らのファーストネームをつけた[[格安航空会社]]の[[ニキ航空]]を設立し、経営者となった。2011年に共同出資者の[[エア・ベルリン]]へ会社を売却し、エア・ベルリンの社外取締役に就任した。
100行目:
*フェラーリ入りして最初のテストで、感想を聞かれると「ひどいマシンだ」と切り捨てた(当時のフェラーリではマシンの批判は禁句だった)。「フロントサスペンションを直してほしい」と要求すると、エンツォ・フェラーリは「よかろう、ただし1秒速く走れなければ、お前はクビだ」と告げた。ラウダは手直ししたマシンで1秒以上速く走り、有言実行ぶりを示した<ref>『スクーデリア・フェラーリ 1947-1997 50年全記録』 ソニーマガジンズ、1998年、p103。</ref>。
*名誉に執着が無く、地元のガソリンスタンドで代金代わりにF1の優勝トロフィーを渡したこともあった。
*1976年のニュルブルクリンクでの大事故では、病院では助かる見込みが少ないと思われ、神父を呼んで臨終の儀式まで行われていた。ラウダは「冗談じゃない、死んでたまるか」と妻の呼びかけで薄れる意識を保とうとした。その後、エンツォにイタリアグランプリからの復帰を申し出たが「ダメだ。もし最終的に世界チャンピオンになれなかった時、事故のせいにできるから、あまり早く復帰しない方が良い」と一時は断られた。また、豪雨の最終戦で自らマシンを降りた際には、メカニックに「また死に損なうのは御免だ」と告げたという。
*1977年、エンツォと口論の末フェラーリから離脱した後、自家用飛行機で帰ろうとするが、航空管制塔から離陸許可が出なかった。実は既にラウダがフェラーリを辞める話はイタリア人の耳に入っていたため、フェラーリを辞めて行くドライバーに対する管制官からの嫌がらせだった。それに対してラウダは「私は来年、イタリアのアルファロメオエンジンを積むブラバムに行くんだ、イタリアとは縁が残ってるよ」と答えたところ、管制官は離陸を許可した。
*1度目の引退から2年経った1982年に[[フォーミュラ1|F1]]に復帰する際、マクラーレンのメインスポンサーである[[マールボロ (たばこ)|マールボロ]]の重役から「契約金はいくら欲しいんだ」と聞かれ、それまでの現役ドライバーよりも遙かに高額の金額を口にした。それに対して重役は「まだ誰よりも速く走る自信があるのか?」と質問するとラウダは「私のドライバーとしての価値はせいぜい1ドル程度だろう。この金額は、ニキ・ラウダというブランドに対して支払われる対価だと考えて欲しい」と答え、これにマールボロ側も了承した。そしてラウダは1984年に3度目となるワールドチャンピオンを獲得した。
*エンツォと口論の末フェラーリから離脱した後、自家用飛行機で帰ろうとするが、航空管制塔から離陸許可が出なかった。実は既にラウダがフェラーリを辞める話はイタリア人の耳に入っていたため、フェラーリを辞めて行くドライバーに対する管制官からの嫌がらせだった。それに対してラウダは「私は来年、イタリアのアルファロメオエンジンを積むブラバムに行くんだ、イタリアとは縁が残ってるよ」と答えたところ、管制官は離陸を許可した。
 
=== 人間関係 ===
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*[[カルロス・ロイテマン]]の事を「チームメイトか、ライバルか?」と記者に聞かれ、「どちらでもない」と答えた。
[[ファイル:Anefo 933-1302 Huub Rothengatter, Alain Prost, Niki Lauda 29.10.1984.jpg|thumb|right|240px|マクラーレン時代のラウダ(右)とプロスト(中央)]]
*[[アラン・プロスト]]は、ラウダのファンであったことを公言している。また「ニキは私に何かを教えてくれた唯一の人だった。彼はマシンの技術面にも関心を示し、仕事には厳しく、厳格な人であった。私たちはふたりともエゴイストだったけれど、考え方が似ていた。流れるような、飾りのない、一見地味なドライビングも似ていた。マシンの調整セッティングの仕方まで同じだった。ニキと出会ったことで、私は多くのことを学んだよ」と語っている。
*[[ケケ・ロズベルグ]]は、その走りを「ニキと一緒にコーナーに入ったことが何度かあるが、非常にフェアだけど情け容赦ない攻め方をする」と語る。
*[[ジョン・バーナード]]は「[[ポルシェ]]の手綱を取れたのはニキのおかげだ。ポルシェは彼の意見なら聞く耳がある。信頼もしていたようだ」と語っている。
*最後の勝利となった1985年オランダグランプリでラウダは予選10位に甘んじていたが、スタート前に友人のジャーナリスト、ヘルベルト・フォッカーに「今日は君が勝つよ」と言われ「何言っているんだ。完走出来るくらいには頑張るけど、俺は生きて帰らなきゃならないんだぜ」とかぶりをふった。が、スタートの混乱に乗じて5位に躍り出たラウダは「ヘルベルトのために勝ってみせようじゃないか」と、会心のレース運びで勝利を飾った。
*フェラーリのアドバイザー時代の1992年、ブラバムの女性ドライバー[[ジョバンナ・アマティ]]との不倫報道で騒がれ浮名を流すなどプレイボーイの一面もある
 
=== 帽子 ===
*大やけどを負って以来、公の場では傷を隠すために[[ベースボールキャップ#その他の使用例|アポロキャップ]]を被っている。ブラバムチームのメインスポンサーだった[[イタリア]]の食品会社[[パルマラット]] (parmalat) の文字が入った赤い帽子を'''常に'''被っていたため、時に「正装姿に赤いパルマラット帽」、などの奇妙な出で立ちとなったが、本人は平然たるものであった。パルマラットとの関係は27年も続いた長く強いものだったが、[[2004年]]にパルマラットの[[粉飾決算]]スキャンダルに伴う経営不振の影響で契約が終了。広告収入を得るため新たな「帽子スポンサー」を募集した。以後、暖房器具メーカー[[フィースマン]](Viessmann)、[[エリコン]]、[[アーバー]](aabar)などが契約した。
*2014年には新たなキャップスポンサー、遊技機メーカー「ノボマチック」(NOVOMATIC)を披露したが、地元オーストリアで批判を受けている大手賭博会社としてニュースになった<ref>"[http://www.topnews.jp/2014/01/20/news/f1/teams/mercedes-gp/102648.html ラウダ、新スポンサーで物議をかもす]". Topnews.(2014年1月20日)2014年3月5日閲覧。</ref>。
 
127行目:
*1982年に復帰することが決まった際、何かにかこつけてマルレーネ夫人と揃って渡英し、夫人がショッピングする合間にこっそりテストに抜け出していた。その後、夫人がラウダのF1復帰を知った際には相当怒っていたそうで、『このろくでなし!』とこっぴどく罵られたという<ref name="lauda01"/>。
*マルレーネ夫人との間に2人の息子を儲け、息子の[[マティアス・ラウダ]] ([[:w:Mathias Lauda|Mathias Lauda]]) もレーシングドライバーとして活躍中である。[[スピードカー・シリーズ]]をともに戦っていた[[片山右京]]曰く「えげつないドライバー」。その他、[[非嫡出子]]の息子が1人いる。
*1991年に前妻15年連れ添ったマルレーネと離婚し、2008年8月に30歳年下のビルギット夫人(ラウダ航空の元スチュワーデス[[キャビン・アテンダント]])と再婚。2009年9月16日に60歳で[[双子]]の父親になった。
 
== 映画 ==