「ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル」の版間の差分
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[[File:Ermordung August von Kotzebues.jpg|thumb|ザントに刺殺されるコッシェブー]]
1819年、イェーナ大学の学生でブルシェンシャフトの急進派{{仮リンク|カール・ザント|en|Karl Ludwig Sand}}が、[[マンハイム]]でロシア贔屓の反動的な劇作家として知られていた{{仮リンク|コッツェブー|en|August von Kotzebue}}を刺殺する事件が起こった<ref name="澤田(1970)222-223">[[#澤田(1970)|澤田(1970)]] pp.222-223</ref><ref name="R. スペンサー(1996)102">[[#R. スペンサー(1996)|R. スペンサー(1996)]] p.102</ref>。この事件はザントがコッツェブーをロシアのスパイと考えて
しかし、これを好機としてオーストリア帝国の宰相[[メッテルニヒ]]は主要諸邦の代表を[[カールスバート]]に集め、ブルシェンシャフトに対する本格的な弾圧を開始することに合意、[[カールスバート決議|決議]]した。1820年、かくしてカールスバート決議に基づき、学生運動の賛同者であった{{仮リンク|フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン|en|Friedrich Ludwig Jahn}}が運営する体育学校の閉鎖に加えて、ブルシェンシャフトは結成禁止と解散が言い渡され、言論・出版の自由が制限されるようになった。大学令によって各大学は政府が派遣する監督官による監視下に置かれることになった<ref name="澤田(1970)220,223">[[#澤田(1970)|澤田(1970)]] p.220,223</ref>。
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