「ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m bot: 解消済み仮リンクアダム・ファーガソンを内部リンクに置き換えます
341行目:
[[File:Ermordung August von Kotzebues.jpg|thumb|ザントに刺殺されるコッシェブー]]
 
1819年、イェーナ大学の学生でブルシェンシャフトの急進派{{仮リンク|カール・ザント|en|Karl Ludwig Sand}}が、[[マンハイム]]でロシア贔屓の反動的な劇作家として知られていた{{仮リンク|コッツェブー|en|August von Kotzebue}}を刺殺する事件が起こった<ref name="澤田(1970)222-223">[[#澤田(1970)|澤田(1970)]] pp.222-223</ref><ref name="R. スペンサー(1996)102">[[#R. スペンサー(1996)|R. スペンサー(1996)]] p.102</ref>。この事件はザントがコッツェブーをロシアのスパイと考えて生じ起こした事件であった。ザントは死刑となるが、この事件社会に与える影響は大きかった。ザントを非難する見解よりも彼を志士として見なして同情する意見が多数だったのである。たとえば、フリースの直感的感情を核にした哲学に賛同していたベルリン大学の神学教授ド・ヴェッテは、ザントの母に励ましの手紙を贈っている。その手紙ではザントの行為は誤りであるが、ザントの志は正しいとするものであった。しかし、ド・ヴェッテはこの手紙が不適切という理由でプロイセン文部省の指令で解雇されてしまう。ベルリン大学当局はこれに反発して抗議し、ド・ヴェッテを支えるために募金をおこなっている。ヘーゲルはド・ヴェッテに対する処分は必要だが、免職するのは相応しくないとして、この募金には応じている。ヘーゲルは愛国心と良識の両立を見据えた行動をとるべきだと考えていたのである<ref name="澤田(1970)224">[[#澤田(1970)|澤田(1970)]] p.224</ref>。
 
しかし、これを好機としてオーストリア帝国の宰相[[メッテルニヒ]]は主要諸邦の代表を[[カールスバート]]に集め、ブルシェンシャフトに対する本格的な弾圧を開始することに合意、[[カールスバート決議|決議]]した。1820年、かくしてカールスバート決議に基づき、学生運動の賛同者であった{{仮リンク|フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン|en|Friedrich Ludwig Jahn}}が運営する体育学校の閉鎖に加えて、ブルシェンシャフトは結成禁止と解散が言い渡され、言論・出版の自由が制限されるようになった。大学令によって各大学は政府が派遣する監督官による監視下に置かれることになった<ref name="澤田(1970)220,223">[[#澤田(1970)|澤田(1970)]] p.220,223</ref>。