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[[画像:Folke-Bernadotte.jpg|thumb|right|フォルケ・ベルナドッテ]]
'''フォルケ・ベルナドッテ'''('''Folke Bernadotte af Wisborg''', [[1895年]][[1月2日]] - [[1948年]][[9月17日]])は、[[スウェーデン]]の[[外交官]]。スウェーデン王家である[[ベルナドッテ朝|ベルナドッテ家]]の一員で、[[オスカル2世 (スウェーデン王)|オスカル2世]]の次男[[オスカル・ベルナドッテ|オスカル・カール・アウグスト]][[王子]]の子。[[グスタフ5世 (スウェーデン王)|グスタフ5世]]の甥に当たる。
 
スウェーデンの王位継承法では、[[君主]]の許可なく結婚した[[王族]]とその子孫は王位継承権と称号を失ったが、オスカル2世の王妃[[ゾフィア・フォン・ナッサウ|ソフィア]](フォルケの父方の祖母に当たる)が[[ルクセンブルク大公]][[アドルフ (ルクセンブルク大公)|アドルフ]]の異母妹であった関係で、1868年以降はルクセンブルク大公からそうしたスウェーデン王族全員に対して「ヴィスボリ([[ヴィスビュー]]の城塞群のこと)のベルナドッテ伯」の称号が授けられていた。そのためフォルケは'''ベルナドッテ伯'''として知られている。
 
最初は近衛騎兵の[[将校]]であった。スウェーデン・アメリカ合衆国友好使節としてよく[[アメリカ合衆国]]を訪問した。[[第二次世界大戦]]中の[[1943年]][[スウェーデン赤十字社]]副総裁、[[1946年]]には[[総裁]]となった。大戦中は捕虜交換のために活動し、[[1945年]][[4月]][[ハインリヒ・ヒムラー]]と会見し、ドイツの休戦・降伏交渉にも関与するが、不成功に終わる
 
[[画像:Denkmal Folke Bernadotte.jpg|thumb|[[デンマーク]]の[[クルソー]]にあるフォルケ・ベルナドッテの記念像]]
[[1947年]][[5月20日]]に[[国際連合|国連]]に請われ、[[1948年]][[第一次中東戦争]]を解決するため、国連[[パレスティナ]]調停官に任命される。[[イスラエル]]政府とアラブとの和平に尽力するが、戦闘中の1948年9月17日、[[エルサレム]]で武装[[シオニスト]]の[[過激派]]分子・[[シュテルン]](正式名称「[[レヒ|イスラエル自由戦士団]]」)によって国連軍将校とともに射殺された。
 
== 関連項目 ==
* [[赤十字社]]
* [[白バス]]
 
== 外部リンク ==
{{wikiquote|en:Folke Bernadotte|フォルケ・ベルナドッテ(英語)}}
{{commonscat|Folke Bernadotte|フォルケ・ベルナドッテ}}
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[[Category:スウェーデンの外交官]]
[[Category:ベルナドッテ家|ふおるけ]]
[[Category:伯爵]]
[[Category:暗殺された人物]]
[[Category:イスラエル・アラブ戦争]]