「井伏鱒二」の版間の差分

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[[1912年]] 旧制[[広島県立福山中学校]](現[[広島県立福山誠之館高等学校]])に進学した。同校の庭には池があり、二匹の[[サンショウウオ|山椒魚]]が飼われていて、これがのちに処女作として発表され、世に知られることとなる「山椒魚」に結びついた。作文は得意だったが成績はあまり振るわず、中学校3年生ころから[[画家]]を志し、卒業すると3ヶ月間[[奈良]]・[[京都]]を写生旅行。そのとき泊まった宿の主人が偶然[[橋本関雪]]の知り合いと聞き、[[スケッチ]]を託して[[橋本関雪]]に入門を申し込んだが断られ、やむなく帰郷する。
 
こののち、同人誌に投稿などをしていた文学好きの兄からたびたび度々勧められていたこともあって、井伏は[[文学]]に転向することを決意、[[早稲田大学]][[文学部]][[仏文学科]]に入学する。そこで同じ学科の[[青木南八]]と親交を深める一方、文壇で名を成していた[[岩野泡鳴]]や[[谷崎精二]]らのもとを積極的に訪ねるようになる。
 
[[1921年]] しかし三回生の時、井伏は担当の教授と「衝突<ref>懇意にされていた男性の教授からあるとき[[セクハラ|性的に言い寄られた]]が、同性には興味のない井伏がこれを断ると、この教授は手のひらを返すように井伏に辛くあたるようになったという。</ref>」し止む無く休学し帰郷、母と兄の配慮により中学時代の恩師を人伝に仲介を受け、御調郡(旧・[[因島市]]、現・[[尾道市因島]])三庄町千守の土井医院<ref>後の作品、[[本日休診]]のモデルとなった医院</ref>二階へ逗留する事となった<ref>[http://www.masnet.ne.jp/forum/bingoohrai/robouta/old/017/robouta/robouta.htm 路傍の詩]</ref><ref>[http://www.asahi.com/area/hiroshima/articles/MTW20161121351340002.html 朝日新聞デジタル:2 トラブルで休学 - 広島 - 地域]</ref><ref>[http://0845.boo.jp/times/archives/10535 続・井伏鱒二と「因島」余録【2】昭和六年 土井家弔問から | せとうちタイムズ]</ref><ref>[http://repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/2085/1/AN103087570190001.pdf 井伏鱒二と大正末年の因島・御調郡三庄町 前田貞昭]</ref>。
 
約半年後に帰京、復学の申請をするが、同教授が反対したため叶わず、く中退となった。さらにこの年、無二の親友だった[[青木南八]]が自殺するに及んで井伏は[[日本美術専門学校|日本美術学校]]も中退してしまう。
 
[[1923年]] 同人誌『世紀』に参加し、「[[山椒魚 (小説)|幽閉]]」を発表。翌年、聚芳社に入社するが、退社と再入社をかえしたのち、[[佐藤春夫]]に師事するようになる。
 
[[1924年]] 親友を頼って山口県柳井市に滞在。後になって、当時お露という名前の柳井高等女学校の生徒への切ない恋を告白した書簡が見つかっている。<ref>『朝日新聞』2010年10月27日37面</ref>。
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[[1929年]] [[梶井基次郎]]の「[[ある崖上の感情]]」の影響を受けた「朽助のいる谷間」を『創作月刊』誌に<ref>[http://merlot.wul.waseda.ac.jp/sobun/history/syouwa/s01-10.htm 早稲田と文学・井伏鱒二年表]</ref><ref>[http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/15756/20141016123917824116/kbs_20_141.pdf 近代文学試論]、広島大学近代文学研究会、1983年6月、p.141</ref><ref name="otani11">「第十一章 悲しき突撃――再び東京へ」({{Harvnb|大谷|2002|pp=243-258}})</ref>、「幽閉」を改作した「[[山椒魚 (小説)|山椒魚]]」を『文芸都市』誌に、「屋根の上のサワン」を『文学』に発表。
 
[[1930年]] 初の作品集『夜ふけと梅の花』を出版。この年は[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]らが出していた雑誌『作品』の同人となったり、[[太宰治]]とはじめて会ったりしている。
 
[[1931年]]4月29日 井伏は[[林芙美子]]と瀬戸内の因島に渡り、三ノ庄(みつのしょう)の土井浦二宅を訪れて同家の跡取り息子の展墓を果たす。かつて早稲田を休学して憂悶の日々を送った折に、当地で止宿先を提供してくれた土井医院の長男春二がこの年二月、日本医大在学中に病没したためである<ref>「[[本日休診]]」作中、大先生の跡取り息子が戦死するエピソードのモチーフとなった出来事</ref>
その島を離れる折に船上で林芙美子の人情味溢れる感情の機微に触れ<ref>
やがて島に左様ならして帰るとき、林さんを見送る人や私を見送る人が十人足らず岸壁に来て、その人たちは船が出発の汽笛を鳴らすと「左様なら左様なら」と 手を振つた。
林さんも頻りに手を振つてゐたが、いきなり船室に駆けこんで、「人生は左様ならだけね」と云ふと同時に泣き伏した。
そのせりふと云ひ挙動と云ひ、見てゐて照れくさくなつて来た。
何とも嫌だと思つた。
しかし後になつて私は于武 陵「勧酒」といふ漢詩を訳す際、「人生足別離」を「サヨナラダケガ人生ダ」と和 訳した。
無論、林さんのせりふを意識してゐたわけである。[[因島半歳記]]
</ref>その事が、後に彼の有名な[[于武陵]]「勧酒」の訳出「サヨナラダケガ人生ダ」を生み出す端緒となる。<ref>[http://0845.boo.jp/times/archives/10535 続・井伏鱒二と「因島」余録【2】昭和六年 土井家弔問から | せとうちタイムズ]</ref><ref>[[さだまさし]]『絶対温度』</ref>
 
[[1938年]] 「ジョン萬次郎漂流記」で第6回[[直木賞]]受賞、『[[文学界]]』誌の同人となる。戦時中は[[大日本帝国陸軍|陸軍]]に徴用され、開戦を知ったのは[[南シナ海]]上を航行する輸送船の中だった。その後日本軍が占領した[[シンガポール|昭南]]に駐在、現地で日本語新聞([[昭南新聞]])の編集に携わった。この経験がその後の作品に大きな影響を与えている。
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[[1944年]] 7月には甲府市甲運村(甲府市和戸町)の岩月家に[[疎開]]する。岩月家は双英書房の創業者である岩月英男の実家で、岩月は井伏門下で、太宰治の著作などを刊行している。井伏は翌年1945年7月6日-7日の[[甲府空襲]]では被災している<ref>なお、太宰治は昭和14年9月に東京三鷹に転居していたが、戦時中には甲府の石原家に疎開しており、甲府空襲で被災している。</ref>。井伏はその後、広島県福山の生家に再疎開しているが、戦後も山梨県訪問は頻繁に行っており、俳人の[[飯田龍太]]らと交流した。
 
[[1965年]] 『[[新潮]]』誌に、「[[黒い雨 (小説)|黒い雨]]」(連載当初は「姪の結婚」)を連載。この作品で[[1966年]](昭和41年)、[[野間文芸賞]]を受賞。同年に[[文化勲章]]受章した
 
[[1970年]] 「[[私の履歴書]](半生記)」を[[日本経済新聞]]に連載した
 
[[1982年]] 荻窪の古老:矢嶋又次の昔の荻窪の「記憶画」に触発されて執筆した「荻窪風土記」を新潮社より発刊。