「承平天慶の乱」の版間の差分

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なお、天長3年(826年)9月、上総・常陸・上野の三か国は親王が太守(正四位下相当の勅任の官)として治める親王任国となったが、この当時は既に太守は都にいて赴任せず、代理に介が長官として派遣されていた。当然ながら「坂東王国」であるなら朝廷の慣習を踏襲する必要は全く無く、常陸守や上総守を任命すべきであるが、何故か介を任命している。ここでの常陸、上総の介は慣習上の長官という意味か、新皇直轄という意味か、将門記の記載のとおり朝廷には二心がなかったという意味なのかは不明である。その一方で上野については介ではなく守を任命しており、統一されていない<ref group="注釈">
[[海音寺潮五郎]]は著書『悪人列伝 古代篇』にて、これを将門の無知の証拠であり、[[源頼朝]]における[[大江広元]]や[[三善康信]]のような良い参謀がいなかった、それが民意を充分に汲むことができず、乱が失敗に終わった要因であると指摘している。</ref>
 
 
 
 
ている。</ref>。
 
=== 追討 ===