「グレゴリウス13世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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カトリック諸国のリーダーとして、教皇が[[イングランド]]女王[[エリザベス1世]]の統治の転覆を支援したことはイギリスにおいてカトリック教徒が敵視される原因をつくってしまった。[[1578年]]には自らの軍勢を与えたトーマス・スタークレーに命じてイギリスの膝元であった[[アイルランド]]への侵攻をおこなわせようとしたが、スタークレーは与えられた軍をもってポルトガル王[[セバスティアン1世 (ポルトガル王)|セバスティアン1世]]と合流し、[[モロッコ]]攻撃([[アルカセル・キビールの戦い]])をおこなってしまったため企図は果たせなかった(スタークレーとセバスティアンは戦死)。[[1572年]]8月にフランスで[[サン・バルテルミの虐殺]]が起こってプロテスタント支持者たちが多数殺害されると、「テ・デウム」を歌って神を賛美し、記念メダルを作らせている。ただ、この教皇の行動はプロテスタントの死を喜んだのではなく、フランス王や実行者側がこの虐殺事件を、王に対する反乱の計画者たちの誅殺であると国外に巧みに喧伝したため、それを教皇が信じていたためという見方もある。
 
[[Image:JapaneseDelegatesAndPopeGregory13.JPG|thumb|300px|[[伊東マンショ]]とグレゴリウス13世が宣教派遣先謁見の書かれた書面を神学生たちに渡している場面。グレゴリウス大学所蔵。]]
ローマにおいては[[サン・ピエトロ大聖堂]]にグレゴリウス聖堂を建築し、[[1580年]]には現在でも首相公邸として用いられている[[クイリナーレ宮殿]]を造営させている。さらに[[ディオクレティアヌス浴場]]を穀倉に改造もしている。これらの資金は教皇領内の資産を没収するなどしておこなったため、貴族たちの反感を集め、統治に混乱をきたすことにもなった。また、愛人との間にもうけた庶子[[ジャコモ・ブオンコンパーニ|ジャコモ]]を引き立てて、[[サンタンジェロ城]]の城主、教皇領国務長官などに抜擢している。教皇の歓心を買おうとした[[ヴェネツィア共和国]]はこのジャコモを貴族に加え、スペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]は将軍位を与えている。