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教経が『平家物語』に最初に登場するのは[[寿永]]2年([[1183年]])5月に[[倶利伽羅峠の戦い]]、[[篠原の戦い]]で[[源義仲]]に連敗した平家が急ぎ京の守りを固める場面で、兄の通盛とともに2000余騎を率いて[[宇治橋 (宇治市)|宇治橋]]を警護している。結局、同年7月に平家は都落ちし、教経も一門とともにこれに従った。
 
同年閏10月、義仲は[[讃岐国]][[屋島]]の平家の本営を攻略すべく[[源義清 (矢田判官代)|足利義清]]を代官(総大将とする軍を進発させ[[備中国]]水島で渡海の準備をさせた。副将平家方は大手(正面)の平知盛・重衡、搦手の通盛・教経ら率いる平氏を迎撃に出た。迎撃に出撃した教経は「者ども、北国の奴ら生捕られては残念であろう、さあ味方の船を組め」と大音声をあげて、船をつなぎ合わせて板を渡して平坦にして馬とともに押し渡る戦法で攻めかかり、教経先頭に立って奮戦、源氏方の[[侍大将]]の[[海野幸広]]を討ち取り、さらに[[足利義長]]も戦死、総大将の足利義清は自ら船を沈めて自害した。平家方は大勝した([[水島の戦い]])。
 
水島の敗戦という結果により義仲による平家追討は頓挫。やがこれらも含め義仲は各所の信望を失い、[[後白河天皇|後白河法皇]]とも対立して勢力を失い離反も相次いだ。のち寿永3年([[1184年]])正月に[[鎌倉]]の[[源頼朝]]が派遣した[[源範頼|範頼]]・義経によって滅ぼされた。
 
=== 六ヶ度合戦 ===